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2004年11月 1日

『欲望の翼』

映画・テレビ | 王家衛

1990年の香港映画。原題『阿飛正傳』、英題『Days of Being Wild』、監督ウォン・カーウァイ(王家衛)。【Amazon.co.jp】

通して観たのは8年ぶり、3回目。思えばこれが、初めて観たウォン・カーウァイ作品でした。1992年頃かなー。ある晩、たまたまテレビを点けたら放映が始まって、タイトルも確認せずに、そのまま見入ってしまったのです。当時は、ウォン・カーウァイなんて名前も知らず、実はこれが香港映画だということすら、よく分かってませんでした。ただ、全体的に暗い色調の画面の中から発散される独特の美意識とか、突然挿入される密林のイメージの、青みがかった湿度の高い緑とか、登場人物のそれぞれがもやもやとしたものを抱えて、もがきながら生きているストーリーに、なんとなく引き込まれて、そのままぼーっと最後まで観てしまったのでした。

で、ずーっとあとになって、『恋する惑星』に衝撃を受けて、職場の香港映画好きの人にそれまでのウォン・カーウァイ作品のビデオを貸してもらって。そのとき初めて「あれ、私この映画、知ってるよ?」となったわけです。

群像劇なんだけど、中心にいるのは、今は亡きレスリー・チャンが扮する「ヨディ」という青年ですね。女の子相手に「夢で会おう」だの、「この1分を忘れない」だの、かーっ、スカしてるなあ……と思うんですけど、最後の最後までこの調子で「今日もいい天気で終わるのかな?」なんてやられちゃうと、えーい、許す、あんたなら許すよ! ってかんじで(どんなんだ)。最初に観たときはもちろん、実は2度目に観たときすら、彼がどれほどすごい評価を受けてる人なのかってことは、全然知らずにいたわけですけれども。しかも、個人的にはこの人、好みのタイプだったことは一度もないんですけれども。でも、このヨディが、自分自身は「どこにも止まれない脚のない鳥」なんてうそぶきつつ、皆の心をかき乱し、振り回していく存在であることは、強引に納得させられた。(レスリーってこう、常に「ぬめぬめ」としたかんじの色気がにじみ出ているのが、目のやり場に困るから苦手だと、ずっと思っていたのでした。なのに死亡のニュースを見たときにはものすごいショックで、一日、何も手につかなかったっけ。それだけ、無条件で存在が大きかったんだなあ。余談でした。)

誰もかもが、満たされない思い、報われない思いを抱えている、やるせないストーリー。現在は脚本ナシで撮影始めちゃうことで有名なウォン監督ですが、まだこの頃は、ちゃんとある程度、お話を固めてから撮影してたのかも、という印象です。その分、いくぶん陳腐なストーリー展開もあります。でも、それを「野暮ったい」と笑い飛ばすことは、できない。一番ホッとするのは、ヨディに失恋した女の子と、彼女を助けたいと思う警官さんの交流があるシーンですが、その二人さえも、やがてはすれ違ってしまう。ウォン・カーウァイって、初期の頃からずっと、さまざまな「すれ違い」ばかりを描いているんだなあ。モノローグの使い方も、後の作品に通ずるところがあります。

最初に観たときには、思わせぶりなラストシーンがとっても謎だったんですが、あとになって、これが本来、2部作の前半だったことを知りました。結局、撮られることなく終わった続編は、どんなものになるはずだったんだろう? トニー・レオンは、どこでほかの登場人物たちと絡んでくるの? 警官さん(のちには船乗りさん)は、「彼女」と再会するの? とはいえ、この「満たされないで終わるもどかしさ」をこちらに抱かせる、どっか宙ぶらりんなラストは、この作品には似つかわしいような気もします。延々と「宙ぶらりん」な気持ちを描いた映画だもの。いっそもう、続編なんて、初めから「なかったもの」と見なしておいていいような。

さて。ここで告白させてください。私、ずーっとウォン・カーウァイを好きな映画監督の一人に挙げてきて、さらに『欲望の翼』関連では、いつも「一番好きな登場人物は、あの警官さん!」なんてほざいてたんですよ。なのに、今回新作映画のための予習として過去作品を観直そうと思って、作品情報を改めてチェックするまで、その「警官さん」を演じているのが、若き日のアンディ・ラウだったってことに、全然気付いてませんでした! ここ最近あんなにアンディ萌えだったのに! つまり、先日「初めて観たアンディ・ラウ出演作は時代物だった」なんて書いたのも、大嘘だよ! 監督ファンとしても俳優ファンとしても、滅茶苦茶いいかげんだなあ>私。

もちろん、香港映画知識なんて皆無なときに観たからっていうのはあるんですが。2回目のときだって、俳優はあんまり気にしてなくて、あくまでも監督に興味があって観た作品だからっていうのも。

でも、「ヨディ」がレスリー・チャンだとか、彼と絡む女の子二人の片方が、マギー・チャンだとか(もう一人がカリーナ・ラウだったことは忘れていた)、ヨディの友人がジャッキー・チュンだとか、正体不明の男がトニー・レオンだとか、そういうのは、後に得た知識で頭に入ってたんです。なのにどうしても、あの「警官さん」だけが、顔をはっきりと思い出せなかったし、なぜだかこの9年間、誰が演じていたのかを調べようという気にも、一度もならなかったんだよなあ。「警官さん」は「警官さん」としか思ってなかった。

というわけで、実際に9年ぶりに観てみて、画面にアンディ・ラウが登場したときには、「おおおっ!」って思いました。わっかーい。でもたしかに、紛れもなく、アンディだねえ。記憶の中では、マギー・チャンと一緒にいる警官さんが一番好きだったけど、今回は終盤の、レスリーと一緒にいるアンディが、すごくよかった。

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独りウォン・カーウァイ週間(予定)

映画・テレビ | 王家衛

週末、新宿まで金城映画を観に行く余裕はなかったんですが、本当は近場の映画館で『2046』を観るくらいなら、やろうと思えばできたんです。それをしなかったのは、その前に観直しておこうと思っていた、ほかのウォン・カーウァイ映画を結局まったく観てなかったから。

というわけで、今週はできるだけウォン・カーウァイ監督の映画のDVDを観ることにいたしました。

なんだかんだ言っても、1995年の夏、たまたま魔が差してウォン監督の『恋する惑星』を観に行かなければ、私は今、金城ファンじゃないし。香港映画も観てないし。その後、この人の作品が、香港映画としてはかなり特殊なところに位置しているんだということが、段々と分かってきて、さらには「いかにも」な香港映画もけっこう好きだなー、と思うようになってきてからも、やはりウォン・カーウァイというのは、私にとっては、特別な名前なんだ。

そんでもって、初めて『恋する惑星』や『天使の涙』を観たときには、ウォン・カーウァイの映画って、とにかく画面がきれいで、すごく新しくて、とんがってて、現実から浮遊しているみたいなかんじで……というイメージだったけれど。今はこの人の映画って、どれも根底にあるのは、「お洒落」とは対極を行く、かなり泥臭い、だけどベーシックな感情なんじゃないかって気がしてます。

どの作品も、「他者への行き場のない思い」が昇華されずに、徐々に発酵していくみたいな、そういう話なんじゃないかと。最初に観た『恋する惑星』だけは、今でもちょっとだけ、ほかとは違うような気がするけれど。

それにしても、先週末に新宿に行けてれば、先日から『Needing You』、『暗戦』、『痩身男女』、『マッスルモンク』……とジョニー・トー監督の作品を観続けてきたのを金城くん主演の『ターンレフト・ターンライト』で締めくくれて、心置きなくウォン・カーウァイ週間に突入できたのになあ、ぶちぶちぶち(←往生際が悪い)。

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2004年11月 2日

どこかで誰かが高笑い

書籍・雑誌 | もろもろ

本屋さんで、『Olive特別編集 大好きな雑貨に囲まれて 雑貨少女の楽しい毎日』(Magazine House mook)【Amazon.co.jp】なるものが目に入って、足を止めた。『あれ? Oliveって、もうとっくに廃刊になった雑誌じゃなかったの?」と思ったのだ。

で、手に取ってパラパラめくってみた。おや、本来の『Olive』はティーン向け雑誌でしたが、この本は、「あの頃ティーンだった主婦」向けなんですね? だって、キッチン用品やリビングルームのインテリア関連のページが、たくさん。添えられているのは幼児の写真だし。

思えばあの頃、いわゆる「オリーブ少女」たちは、いくら可愛い、趣味のよい雑貨やインテリアが好きでも、そういったものを置ける場所は、自分の部屋しかなかったわけです。一歩、自分の部屋の外へ出ると、そこはもう、親の趣味で固められた世界。なるほど、あの頃の女の子たちが、大人になって、自分の家庭を持って、主婦として実権を握って、「今なら家中全部、私の趣味で固められるんだわ!」ってかんじですか。

「子供の頃に満たされなかった欲望を満たしたい大人」向けという意味では、大阪・日本橋に「ガンダム・ビル」ができたりしているのと、あんまり変わらないような。いや、雑貨は実用性があるから、まだいいのか。

なんかこう最近、いろんなところから「おーっほほほほほっ! さあ、今こそ! 子供の頃の夢を!」と煽られているような気がするんだよなあ。

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『ブエノスアイレス』

映画・テレビ | 王家衛

1997年の香港映画。原題『春光乍洩』、英題『Happy Together』。監督ウォン・カーウァイ。主演トニー・レオン&レスリー・チャン。【Amazon.co.jp】

くっついたり離れたりを繰り返しているゲイのカップルが「やり直す」ために香港から地球を180°巡ったところにあるアルゼンチンまでやってきて、やっぱり別れてしまうのだけれど、やっぱりよりが戻ってしまって、そしてやっぱり展望のない閉塞した関係に。

今まで唯一、観ることができずにいたウォン・カーウァイ作品。数ヶ月前にケーブルテレビで放映されたときに録画しておいたのを、ようやく観ました。

男女のカップルでもありうるようなエピソードばかりで、ストーリー上は、これをゲイのカップルという設定にした必然性って、ほとんどないような気はするんだけど、一度観てしまえば、もうトニー・レオンとレスリー・チャン以外では、考えられない。(最初キャスティング候補にアンディ・ラウも挙がっていたって、以前どっかで読んだんですけど……思い直してくれて本当によかったよ、いろんな意味で。)やっぱり、男性俳優であるこの二人が演じてこその映画ではあると思う。どちらかが肉体的ないし社会的に「男」じゃなかったら、別のお話になっちゃったような気が。男女カップルと変わらない、と言い切ってしまうには、どちらか一方を「女」役に当てはめることに無理がありすぎる。

無邪気にわがままに、しかも自覚的に、魅力を発揮するウィン(レスリー・チャン)と、甲斐甲斐しく彼の面倒を見つつ、徐々に鬱屈していくファイ(トニー・レオン)。一見、いつでも自由奔放に飛び立っていってしまいそうに思えるのはウィンのほうだけど、結局のところ先に次のフェーズに動いていくのはファイのほうで、ウィンは序盤のシーンで二人して迷子になったときの、イグアスの滝にたどり着けない自分のまま、取り残されてしまう。アパートのキッチンで一緒に踊っていたシーンのような、美しい一瞬があっても、時間は容赦なく流れていくのに、彼は多分、それを認めたくなくて、いつでも「チャラにできる=やり直せる」と思っていたいのだ。

題材でかなり引いてたんですが、中身はしっかり、映像から何から全部、ほかの作品とも共通点を感じさせる、いつものウォン・カーウァイ映画でした。それがいいことなのか悪いことなのかはともかく。

あと、出番は少ないけどチャン・チェンがとても印象的でした。主人公の二人がお互いを束縛しあって、空気の流れない狭いところでぐるぐるしているのとは対称的に、彼は「帰っていける」場所を持つがゆえに、今いる場所を離れることや、一人で旅することを恐れない。そしていつも、風に吹かれているかのように大らかで前向きでさわやかで、でもしなやかで繊細だ。どよんとした薄暗がりの中に、やわらかい光が射して来るみたいに。『グリーン・デスティニー』で見たときは、なんか影の薄い人だなーってかんじだったんですが、この映画では素敵だった(『グリーン・デスティニー』で割を食ったのは役柄のせいもあるよね……それと、もともとは金城武にオファーが行ってた役だってことで、こちらにも色眼鏡で見ている部分があったと思う)。

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2004年11月 3日

『いますぐ抱きしめたい』

映画・テレビ | 王家衛

1988年の香港映画。原題『旺角(上/下)門』、英題『As Tears Go By』。監督ウォン・カーウァイ。出演アンディ・ラウ、マギー・チャン、ジャッキー・チュン。【Amazon.co.jp】

これも『欲望の翼』と同じく、8年前に職場の香港電影迷の人にビデオを借りたとき以来、ずっと観てませんでした。こっちはあのときが最初だったので、今回で2度目。そして……はい、これもアンディ・ラウが出ていることを、すっこーーーんと失念していましたともさ。マギー・チャンもジャッキー・チュンも覚えていたのに! アンディ、主役じゃん! しかも役名まで「アンディ」じゃん! どうなってるんだろう、私の記憶力。

でも映画の内容は、8年も経つのに、大体のところは覚えてたし、好きなシーンが来るまでのシーケンスなんか、すごく詳細に記憶に残ってた(だからますます、そのシーンを演じているのがアンディ・ラウだと認識できてなかったのが我ながら謎)。マギー・チャンが初々しくて、可愛かったです。

ウォン・カーウァイの、監督デビュー作。言われなきゃ、これがウォン監督の映画だなんて分からないくらい、ごく普通の、古風とさえ言えるほどの、メロドラマチックなチンピラ映画。ちゃんと脚本どおりに作りましたってかんじの(笑)。ところどころ、「ああ、好きだなあ」とか「やっぱり、この頃から見せ方がうまかったんだなあ」って思うんですけど。特に後半。

最初に観たときは、とにかくジャッキーが印象に残ってました。「ひとかどの者」になりたくて、でもそんな実力はなくて。なのにそれを見極められなくて。故郷にも、もう自分の居場所はない。だったら刹那的にでも、パッと派手に。何度も窮地に陥り、敬愛しているはずの兄貴分アンディに迷惑をかけまくっても、繰り返し繰り返し常軌を逸した行動に出て墓穴を掘ってしまう痛々しい姿は、異様ですらあります。

だけど改めて観ると、いくら「弟分」だからって、周囲の忠告に逆らってまでとことんジャッキーの尻拭いしてやって、自己犠牲の域に行ってしまうアンディも、ちょっと壊れてんじゃないのかなあ、なんてことも思ったり。ジャッキーに依存されているようで、実はアンディのほうが、過去の自分を重ね合わせて理性の飛んじゃってる彼を救い続けることで、自分を理性の側に置けてたり、先のことを考えない自分を正当化できてたりするのかなあ、とか。そしてマギーとの恋愛ですら、それを覆すには至らない。積み重ねた時間の差? マギーに惹かれた時点で、彼は「先のこと(生存すること)」を考えざるを得なくなるはずなのに。

マギーとアンディは、直截的な言葉を交わす恋愛描写って、クライマックスまではほとんどないんだけど、出会ってしばらくした頃の見交わす視線や、お互いの気持ちを量りかねているような微妙な表情にどきどきしました。で、再会してからの流れが、キザすれすれだけど(いや実際キザか)、かっこいいんだなあ。「隠したグラスを」って……うわああ。

でも、マギー・チャンが今でもウォン・カーウァイの映画の常連メンバーなのに、アンディ・ラウが、初期の2作のあとはウォン・カーウァイ的な世界とは遠いところにいるかんじなのは、個人的な思い込みがあるかもしれないけど、なんとなく分かる気がします。

【11/4追記】
上で、「言われなきゃ、これがウォン監督の映画だなんて分からない」って書いたんですが、あとになって、この映画における「アンディとジャッキーの物語」と「アンディとマギーの物語」のあの分断状態は、ちょっとその後の作風に通ずるところがあるのかなあ、なんてことも、思わないでもなかった。こじつけっぽい気もするけど。

『恋する惑星』で、金城武とフェイ・ウォンが、一瞬すれ違っただけで、それぞれ別々の恋愛物語の主人公となるように。『天使の涙』で、金城武のエピソードとレオン・ライのエピソードが、ほとんど交錯しないように。

マギーとジャッキーが面と向かって言葉を交わすシーンは皆無で、同じ場面にいるのも、たった一度。アンディが自分やジャッキーの居住地である九龍から、ランタウ島にいるマギーにかけた電話は、マギーの不在により、取り次がれることなく終わる。ランタウ島をあとにしたアンディへの、マギーからの言葉は、いつも本人の声ではなく、ポケベルによるメッセージング・サービスのオペレータによって伝えられる。アンディにとって、マギーとジャッキーは、それぞれ別々の世界の住人なんだよな。で、アンディがマギーのいる世界に落ち着こうとし始めると、必ずジャッキーが無自覚なまま自分の側に引き戻すのだ。

【さらに補足】
アンディ・ラウには、シビアに観客の目を意識した分かりやすいエンターテインメントの世界で、自分の演技を自分で完全にコントロールしつつ、作り手側(主に監督)と対等な立場で「プロ」に徹するタイプの俳優であってほしいなあ。役者の「実像」と「演じているキャラ」のボーダーラインをわざと揺らがせることによって成立する作品や、「げーじゅつって、何?」と考えてしまうような作品の素材の一つとして扱われるのではなく。で、幾つになっても「アイドルスター」なの。

金城武については、今の彼だったらウォン・カーウァイにどう料理されるのか、見てみたいような気がします。

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2004年11月 4日

『ブエノスアイレス 摂氏零度』

映画・テレビ | 王家衛

1997年に公開された『ブエノスアイレス』の撮影風景、使われなかったシーンなどを編集したドキュメンタリー。日本版DVDは先月発売されたばかり。【Amazon.co.jp】

最初のほうで、ケーキにロウソクを灯してレスリー・チャンの誕生日を祝っているところが映し出されていて、和気藹々な雰囲気が微笑ましかった。でも例によって脚本を定めずに撮影を始めてしまうウォン監督のスタイルのおかげで、どんどんアルゼンチン滞在が長引いてゆき、段々とみんなストレスを溜めていきます。トニー・レオンの鬱屈した表情は、ウィンとの関係が行き詰まっていることを示す演技なのか、それとも実は、撮影が行き詰まりつつあるという苛立ちによるものなのか。もう現実と演技が渾然一体としちゃってたのかも。

どんなインタビューを読んだり見たりしても、ものすごく温厚で我慢強い人なんだろうなー、というイメージのトニー・レオンが、英語圏で作成されたドキュメンタリーなら「ピーッ」で置き換えられてしまったかもしれないような英単語を吐き捨ててカメラの前から立ち去っていく姿が衝撃的。

当時のスタッフが、後日ロケ地を訪問して「ここに電話があった」などと言うと、一瞬ののちに、電話をかける故レスリー・チャンの映像が挿入される。うっわー、あざとい、なんてあざとい編集……と思いつつ、泣けてきてしまった。

完成した映画は、トニー・レオン演じるファイとレスリー・チャン演じるウィンの関係性、特にファイの視点から見たそれに、ぎゅーっと焦点が絞られてるかんじだったんだけど、実際に撮ったフィルムの中には、もっといろんなドラマが想定されていたことが分かる。チャン・チェンのエピソードも、いろいろ撮られてたんだね。最終的には、完全にカットされてしまった登場人物もいたんだ。それぞれの登場人物に、それぞれの物語がある。ストーリーの骨格も、ずいぶんと組み替えられたみたい。

こうやって手探り状態で、監督自身がさまよいながら道を見出していくような形で作り上げていく作品って、一歩間違えれば悲惨なはずなんだけど、出来上がった映画は、「表現したかったこと」に対してすごく真摯に向き合った末の成果物なんだろうな。

そんな綱渡りを続けていても「悲惨」の側に落ちずに踏みとどまり、最低でも「(なんだかよく分からないんだけど)精神に訴えかけてきて深いところに残る」ようなものを観客に提示できてしまうのが、才能ってものなんだろう。しかしつきあう俳優やスタッフは、たまったもんじゃないよなあ。よっぽど、その才能を認めて腹くくってないと。

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2004年11月 5日

『花様年華』

映画・テレビ | 王家衛

2000年の香港映画。原題同じ。英題『In the Mood for Love』。監督ウォン・カーウァイ。主演トニー・レオン&マギー・チャン。【Amazon.co.jp】

ウォン・カーウァイ週間(って、どうも1週間では終われない気配が濃厚)、ようやく、真打の登場です。なぜ真打なのかと言えば、これこそは、現在公開中の『2046』の前にぜひ観ておくべしと言われている作品だからです。とはいえ、今週末、どれか1つ観に行くとしたら、ジョニー・トー監督の『ターンレフト・ターンライト』にするつもりなんですけどね。『2046』は、まあ、余力があれば。

隣人同士のチャウ氏(トニー・レオン)とチャン夫人(マギー・チャン)は、お互いの配偶者同士が浮気をしているのではないかと疑い、それをたしかめるために、初めて二人きりで会う。そしてやがて、自分たちもまた、惹かれあうようになってしまう。でもこの二人は、それぞれの配偶者たちとは違って、決してそれを口に出さないし、行動にも移さずにいる。チャウ氏が外国に去っていくまで。要約するならば、それだけの話。

これは、初めて観たとき以来、ものすごい勢いでハマってしまって何度も繰り返し観ています。どこを切り取っても美しい。当時の感想に特に付け加えるべきこともないなあ。あ、「好きなウォン・カーウァイ作品」の順位は、あのとき書いたのとは微妙に変動しているかも。でも、個人的な「好き」度とは別に、とにかく作品としての完成度は、やっぱりこれが一番だと私は思う。

久々に観てもやっぱり、ずーっと最初から最後まで、息を詰めて神経を研ぎ澄ましながらの鑑賞になってしまった。まったく気を抜けるところがない。時代設定としては、『欲望の翼』とほぼ同じ(『欲望の翼』が1960年から翌年、『花様年華』が1962年から1966年)なんだけど、『花様年華』のほうがずっと、わざとリアルさを抑えて、「いま」の美的センスに基づいて再構築された幻想の60年代香港、という気がします。

壁の染みやガラスの汚れまでが計算ずくで付けてあるに違いない、「隙」の皆無な画面。迷路のような得体の知れなさをかもし出している構造不明なアパートや、がらんとした現実味のない街角を背景に、どんなシーンでも背広やワイシャツを着用しているところしか見せないトニー・レオンや、ちょっとその辺の屋台に行くにもピシッと細身の歩きにくそうなチャイナドレスを着込んでいるマギー・チャンも、どこか浮世離れしている。なのに感情だけが、生々しくリアル。

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2004年11月 7日

『ターンレフト ターンライト』

映画・テレビ

ウォン・カーウァイ週間を一時中断して、土曜日に新宿で金城くん映画を観てきました。香港では2003年に公開された作品。原題『向左走・向右走』、英題『Turn Left, Turn Right』。監督:ジョニー・トー&ワイ・カーファイ、主演:金城武&ジジ・リョン。ワーナー・ブラザース初の中国語映画だそうです。(公式サイト

ジミー(幾米/Jimmy Liao)による絵本『Separate Ways 君のいる場所』(1999年、原題『向左走・向右走 Separate Ways』)の映画化。中国語圏ではものすごく人気のある作家さんらしく、この原作もベストセラーだったとか。

公式サイトやパンフでは、主役二人には「ジョン」と「イブ」という名前が付いているんだけど、作中で名前を呼ばれる場面って、あったかな? 原作では最後まで「彼」および「彼女」としか書かれていません。映画でも、名前は必要なかったのでは(笑)。

なかなかよい仕事にありつけないヴァイオリニストの「彼(金城武)」は、家を出ると右に曲がる癖があり、不本意な仕事もこなさねばならない雇われポーランド語翻訳者の「彼女(ジジ・リョン)」は、左に曲がる癖がある。なので、隣接するアパートのちょうど隣同士の部屋に住んでいるのに、ちっとも顔を合わせない。その二人があるとき、息抜きに訪れた公園でやはり右と左に曲がりながら歩いた結果、円形の噴水池の反対側にいる相手に気付いて運命を感じます。今までパッとしなかった人生が、いきなり明るくなったよう。ところが交換した電話番号のメモが雨に濡れて判読できなくなったため、連絡がつかなくなってしまいました。探す相手が壁のすぐ向こう側にいるとも知らず、またまた延々とすれ違いを繰り返す二人。

わはははは。原作絵本は、都会で一人暮らしする若者の孤独感みたいなのがひしひしと伝わってきて、しんみりとした切なさ満載だったんですが、映画版はこれを、絵本の雰囲気そのまんまで、絵本にしっかり敬意を払いつつ、テンポよくキュートなコメディにしてしまいました。職人芸を感じたよ。

原作は立ち読みですませようと思えば5分でオッケーなくらいの、すごーくシンプルな話なので、もちろん、映画ではいろんなアレンジが入ってはいます。主役たちが見事に対称的に動くことによって生じる、信じがたく壮絶なすれ違い方が、絵本よりも具体的に描かれます。また、主役たちに横恋慕する男女が繰り広げるドタバタは、まさしくコテコテの香港コメディ映画。ワーナーが出資してるとか、そんなことまったく影響してません。

と、同時に、感動するほど要所要所が絵本のイラストレーションそのままでした。ぜひぜひ、絵本を読んでから観てみることをお勧めします。私はDVDが出たら、傍らに絵本を置いて、DVDプレイヤーの一時停止ボタンをばしばし押しながら、あれこれチェックするつもりです。

なんせ、絵本で象徴的に使われてる表現まで、しっかり映像化しちゃってるのだ。たとえば冒頭。雨の街をゆく人々の傘がみーんな真っ黒で、その中で主人公たちだけが色のついた傘をさしている。絵本ではこの見開きページによって、どれだけたくさんの人間がいてもぽつんと孤立している彼ら、という状況が一目で直感的に分かるわけですが、映画もまた、この現実ではあり得ないシーンから始まります。これ見た瞬間、高らかに宣言されたような気持ちになりましたね――これはリアリティを出すことなどまったく考えてない映画だぞ、と。もう、どんなにあり得ない展開が来ても、この世界の中ではアリなんだなー、と素直に思えてしまう。

とはいえ、まさか、原作絵本では前ページからいきなり場面転換する、どちらかと言えば象徴的意味合いが強いと思えるあの最後の見開きページまでもが、映画の中で忠実に再現されるとは、思いませんでした。呆然としつつ驚嘆。「そんな馬鹿な」という気持ちと、「でもこの映画には、似つかわしいかも」という気持ちのあいだで揺れ動いているあいだに、気付いたらエンドマーク。力技で押し切られましたわ。ただ、(微妙にネタバレ→)時節柄、今たちまちの日本では、笑顔で受け止めることにためらいを覚えるようなオチになってしまった(←ネタバレ)ことが残念。タイミング悪かったよなあ。中国語圏で公開されたときから、あまり間を置かずに日本でも公開しておいてくれれば……。

あそこでさくっとエンドロールへ、というのは潔くて好き。あのあとどうしたんだろう、というのは非常に気になるけど(笑)。最後のカットが絵本の巻末奥付のイラストそのままなのも洒落てる。

金城くんとジジちゃんは、どちらも「絵本の主人公」にふさわしい、生々しさのない浮世離れっぷりをかもし出していて、いいキャスティングだったなー、と思わせてくれました。ジジが仕事で翻訳している言語がポーランド語だとは、原作ではどこにも書かれていないのですが、最初のページにポーランドの詩人の作品が引用されているので、これを映画の中でも無理なく登場させるために、そういう設定にしたのでしょう。金城くんのヴァイオリンの音は絶対に吹き替えだと思いますが(ただし本人も先生について演奏の特訓はしたそうで、楽器の構え方はなかなかサマになってました)、ジジのポーランド語セリフは本人が全部喋って頑張ってます。こちらも、ちゃんと撮影前に語学の先生について練習したそうです。

とにかく、隅々に小さな楽しみが詰まった、可愛らしい映画。

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2004年11月 8日

『楽園の瑕』

映画・テレビ | 王家衛

1994年の香港映画。原題『東邪西毒』、英題『Ashes of Time』。監督ウォン・カーウァイ。中国の金庸という作家が書いた武侠小説『射G英雄傳』に出てくるお爺さんたちの若かりし頃、という設定で作られたらしく、ウォン・カーウァイ監督作品の中では異色の、いわゆる「古装片」。主要キャストが非常に豪華で、主人公(だよね?)を演じるレスリー・チャンを筆頭に、レオン・カーファイ、ブリジット・リン、チャーリー・ヤン、トニー・レオン、カリーナ・ラウ、ジャッキー・チュン、マギー・チャン。錚々たる顔ぶれであると同時に、どの人もウォン・カーウァイの映画には繰り返し登場している、監督のお気に入り俳優さんばかり。【Amazon.co.jp】

わりと最近までDVD化されていなかったこともあって、1996年に劇場で観ただけで、ずっと改めて観る機会を逃がしていました。記憶に残っていた漠然とした印象は「誰もかもがすれ違いの報われない恋愛をしている群像劇」というもの。そう括ってしまうと、『欲望の翼』や『天使の涙』とほぼ同じになっちゃうんだけど。

香港で最初に公開されたときは非常に評判が悪かったらしいのですが、さもありなん。きっと向こうの人は、分かりやすい定番の武侠アクションを期待したんだろうな。登場人物が「気」の力でド派手に空なんか飛んじゃったりするやつ。ところがこの映画、チャンバラ部分はさらりとスタイリッシュに処理してしまい、画面はきれいだけどアクションとしては何をやってるのかさえよく分からない。ストーリーも淡々と進行し、ぼうっと見ていると、知らないあいだに各エピソードがどんどん流れていってしまいます。

私は、初めて見たときには今以上に「中国の武侠モノ」に対する知識がなかったため、かえってすんなりと受け入れられたんだと思う。正直、混乱した部分もあったんだけど、あとからじわじわと効いてきて、ずっと心に残っていた。

のちに西毒と呼ばれることになる欧陽峰(レスリー・チャン)は、自らも剣士でありながら、現在は砂漠の小屋に住んで殺し屋の斡旋業をしている。そこへ、親友の黄薬師(のちの東邪)レオン・カーファイ、故郷の桃の花を見たくて旅費のために賞金稼ぎに臨む盲目の剣士トニー・レオン、代わる代わる不可解な依頼をしにくるインとイェンの兄妹(どちらもブリジット・リン)などが、訪れては去っていく。彼らの相手をしながら、欧陽峰は、かつて両思いだったのに結ばれなかった一人の女性を、なにかと思い出している。

うおー、こんな話だったのか。記憶の中でかなり改竄されてたみたい(笑)。ていうかどうも、私これ、初めて観たとき、もしかしたらレスリー・チャンとレオン・カーファイの顔の見分けがついてなかったんじゃなかろうか(ごめんなさい!)。

当時の日記は、こんなかんじです(おお、奇しくも8年前のちょうど同じ日だ! 狙ったわけではないんだよー)。

(1996年11月8日)うーむ。これは、すごい。すっごく、わかりにくい。なのに、わかりやすい。「時代物の、チャンバラ劇」だと聞いていたんだけど、あらまあ実はかなり不毛な「恋愛もの」でもあったのね。で、ストーリーが、非常に追いにくい。断片的なエピソードの積み重ね、と言ったかんじで。なのに、引き込まれて見てしまう。ぐるぐると追いかけっこをするような不毛な恋愛、というのはウォン・カーウァイの映画にはよくあるパターンかもしれないんだけど、他の現代ものの作品にあるような軽やかさは、ここにはない。しかし、重苦しくもない。だけど、この映画に出てくる人々は、みんなどっかで美しく歯車が狂っている。なんていうんだろ。美意識。この映画は、強烈な美意識によって構成されている。時代物である分よけいに、制約を逃れて、思う存分、ウォン・カーウァイの美意識を満足させるためだけに(というのは言いすぎか?)、構成されている。 うーむ。なんか私、この映画かなり好きかもです。

あのときは、すごく込み入ってて、まとまりのない映画だと思っていたんだけど、視点を語り手のレスリーに合わせてしまうと、そうでもない。いつものごとく、解釈に迷う部分はありますが。

とにかく主人公の、この空虚さはどうよ。『欲望の翼』で「誰を愛したのか分からない」と語るレスリーより、明確に一人の女を愛し続けるこの作品のレスリーのほうが、何倍も空虚です。彼の住まう砂漠の景色のように。レスリーの元にやってくるほかの登場人物たちも、みんな報われない。唯一、修行中の剣士ジャッキー・チュンだけは、吹っ切れた表情で妻と一緒に元気に画面から去っていくのだけれど、よかったねえと思う間もなく、彼がのちに戦いで命を落とすことを告げるナレーション。(これは原作どおりなんだろうけど)容赦ないなあ。

観終ったあと、映画の中で砂漠を吹き抜けていた風が、そのまま心の中にまで吹き込んできて、寂しさを広げていくかんじ。

反面、もしかしたらウォン・カーウァイ作品の中で、一番ミーハー的に楽しめる映画かもしれないとも、今回、観直してみて思いました。とにかく、きれいなんだもん! そして、キャストが豪華なんだもん! 淡々としたセリフしかないのに、きったない格好しててもオーラが強烈なレスリー・チャン、凛々しい男装姿や剣さばきを見せるブリジット・リン、『天使の涙』のときとはまったく違う清楚なたたずまいのチャーリー・ヤン、同じようなコスチュームをまとった同じようなヒゲの剣豪なのに、なぜか2003年の『HERO』のときよりも断然「枯れ」てて渋いトニー・レオン、登場シーンは少なくても印象鮮やかなマギー・チャン……。特にブリジット・リンとチャーリー・ヤンは、これの後しばらくして引退しちゃったから、出演作自体が貴重だよなあ。

ちなみに終盤のマギー・チャンとレオン・カーファイの会話が、私にとってのこの映画のクライマックスです。その場にはいない主人公・欧陽峰の存在が、それぞれ別の意味で二人に重くのしかかっていて、ぞくっとします。

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2004年11月 9日

今更ながら「電車男」とか純愛とか

書籍・雑誌 | ネット

いまだに、ほぼどこの書店に行っても中野独人『電車男』(新潮社)が平積みになっているのが目につきます。話題の本なのねえ。

それだけ、たくさんの人たちの琴線に触れる話だったってことでしょうか。ベノアの紅茶まで、電車男効果で売上1.5倍(http://www.sankei.co.jp/news/041018/bun085.htm)……なんて記事を読んでしまうと、ただただ「ほえー」ってかんじです。「純愛物語」とか言われちゃってるし(http://www.asahi.com/tech/apc/040709.html)。そもそも「純愛」って、何? そしてそれって、そんなにいいもの? 普通の愛(笑)じゃ駄目なの?

ご多分に漏れず、私も以前、まとめサイトを一通り読んでます。たしかに、ドラマにはなっている。でもなあ、私の場合、面白いと思うと同時に、「なんか生臭くてちょっと……」と感じてしまって、「感動」はできなかったんだよなあ。だから、その後いろんなサイトで、「泣いた」とか書かれてるのを見ても、ピンと来なくて。皆さん、どの辺で泣いてますか? どの辺に心を揺さぶられていますか? それまでのオタクとしての殻を脱ぎ捨てて頑張る電車男? ネットの向こうの見知らぬ他人の恋愛沙汰で、自分のことのように一喜一憂するスレッド住人たち? 後者なら、ちょっと分かるような気はする。ネット上でのリアルタイムな一体感っていうのは、実際ハイになるよね。でも、純愛か、純愛……。

ふと思ったんだけど、もしかして、私が感じた「生臭さ」っていうのこそが、ほかの人たちの「生身の人間の実話だからこそ感動する」みたいな反応につながるのだろうか?

自分でも「もやもや」としか自覚できてないんだけど、おそらく私があの話で一番「見たくなかったな」と思ってしまった部分は――なんかどっちも、出会う前から「恋人ほしー」って思ってたかんじだよね? なんつーか、新しく出会った異性を、まず「自分の恋愛相手になり得るかどうか」というフルイにかけるような目で見てしまう人だったんじゃないかしら、二人とも。

スレッドに書き込みしてるのは電車男さんのほうだから、そっち側の視点しか明確な言葉では表現されてないけど、相手の女の子(エルメスさん)も、どう考えても最初からくっつく気満々だよね? だからこそ、ああいった、周到に網を張って電車男さんが落っこちてくるのを待っているような言動をとるわけだよね?(こういう表現をしてしまう私は、ちょっと性格悪いなあ、とは思うけど。もちろん、そういうのがタイプな人には、そこが可愛くて「萌え」なんだろうということも分かるよ。)

ええと、だから、どう言ったらいいんだろう。私がログを読んでも「感動」まで行けずにいたのは、男女どちらもが、誰かと恋愛をしたいと思っているときに、たまたまタイミングよくお互い好感の持てる相手に出会って、他人に反対されることもなく、皆の暖かいアドヴァイスや応援を受けてくっついた、というのでは、ワタクシの「純愛センサー」や「感動センサー」には、かすりもしませんことよ!……ってことなのかしら。

微笑ましくはあるんだ。世の中の大半のカップルは、恋愛したいと思っているときに出会った相手とくっついているんだろうし。それは、決して悪いことじゃないよな。いいことだよな。

ああ、そうか。そう思いつつも、出会う前から漠然と「誰かと恋愛したい」という意志が両当事者にあることがうかがえる時点で、それが「不純物」と認識されて、私の頭の中の「純愛」という単語のニュアンスから、外れてしまうんだわ。恋愛なんかする気、全然ないのに、それどころじゃなく心を占めているものはほかにあったはずなのに、気が付いたらすとんと落ちてました……というような、突然変異的に発生する話じゃないと、「純」ではない(それが悪いというわけではないけど)と受け止めてしまうんだ。私だけの感覚?

アキバ系の青年が、がんばって一般人に近づいていったことに感動する? どんな人だって生きてりゃ多少は、得たいものを得るために別のものを切り捨てたり、恥かき覚悟で勇気を振り絞ったりする場面はありますがな。恋愛にかぎらず。

むしろ引っかかるのは、スレッドの雰囲気が、恋愛を成就させ、維持するためには、オタクな趣味を捨てることが当然、みたいなかんじになってたこと。一般人のフリをするのって、そんなにいいことですか? オタクな人たちって、実は、オタクな趣味にこだわらず優雅にエルメスのカップで紅茶など飲みながら生きていくだけで満足できるなら、自分もそのほうが幸せだと思っているの? ていうか、パートナーに「その趣味やめてね」って言われて、ほんとに捨てられるの? なんかちょっと、そういうのって、さびしいなあ。いや、幸せならいいんですけど……私は、「リアル生活でパートナーがいるんだから金城くん映画のDVDはもう要らないでしょ」って言われたら、すごく悲しいなあ(そこかい!)。

もちろん、当事者のお二人を否定する気持ちはないんです。お幸せにね、と思うんです。ただ、「純愛」とか「感動」とかって、みんなで特別視して本まで出して騒ぐことかなあって思ってしまう。多分どこにでもいる、普通のカップルだよね? そしてどんな「普通の」カップルにだって、彼らだけの、他者とは共有できない(かもしれない)エピソードや感情の起伏があるよね?

ああ、今ちょっとひらめいたぞ。ことさらに『電車男』のお話がもてはやされることで、なんか、そういった「誰もが経験しているはずの平凡な感動」が、過小評価されているような気がして、悔しいのかもしれない、私は。

そして、すっきりとまとまらないまま終わる。
11/10に追記

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Intermission

映画・テレビ | 王家衛 | 近況

てっきり今日は水曜日だと思っていたら、まだ火曜日だったので、びっくりです。通勤とも通学とも無縁の生活してると、曜日の感覚、時々狂いませんか?>該当する方々。祝日の感覚も。

相変わらず、このページのアクセス・ログを見ていると、リンク元として一番多いのはSF系の更新アンテナなんですが(本家本元が停止してから、分散はされてますね)、ここしばらくすっかり香港映画ブログと化しているので、心苦しい気持ちです。

とにかく、まだ感想書いてないウォン・カーウァイの旧作映画は、あと2つ、『天使の涙』と『恋する惑星』のみとなりました。あああ、書きにくいやつ残しちゃったぜ。そのほか、監督作品ではないけど、ウォン・カーウァイがプロデューサーとして関与している作品のDVDが2枚、手元にあるので、これも余力があれば何かコメントするつもり。

それから、最近初めて知ったんですが、1991年の『神鳥伝説』(監督デヴィッド・ライ&ジェフ・ラウ/主演アンディ・ラウ)って、ウォン・カーウァイの単独脚本なんですね。脚本の仕事もしていたことは一応知ってたんですが、日本では正式公開されてない初期のものを除けば、みんなほかの人との共同執筆だと思い込んでました。今年の秋、突然アンディ・ラウを気にするようにならなければ、きっと一生気付くことはなかったでしょう。というわけで、これも「そのうち見る映画リスト」に追加。

って、こんな誰も反応できない話題を延々続けていて本当にいいんだろうか。「SF系日記更新時刻」や「ミステリ系更新されてますリンク」に相当するような、香港電影系のオープンな更新アンテナがあれば、今の私は参加させてくださいとお願いしにいく気、満々なんですが、ないよねえ?

本は、最近では『旅行者の朝食』とか『ぶたぶた日記』とか『ニッポンの子育て』とか『箸の上げ下ろし』とか読みました。うわー、見事に小説がない……いや、違った。『ぶたぶた日記』は山崎ぶたぶたさんのエッセイ集ではなくて、矢崎存美さんの小説でしたね(なんか、作中エッセイの印象が強烈で……)。

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2004年11月10日

ふたたび今更ながら「電車男」に関するメモ

書籍・雑誌 | ネット

昨日、「電車男」絡みであれこれ書いたことについて、某方面よりこっそりコメントをもらって、改めて考えてみたのですが。前回すっきりまとめられなかったのは

●あれが何故、世間では「純愛」と定義されている(らしい)のか
●どこが「感動」のキーポイントなのか
●オタクな人が恋愛のためにオタクな趣味から離れていくことは、本当に幸せなのか

の3点が、それぞれまるっきり別の問題であるのに、私が一緒くたに論じていたからではないかと。特に「感動する」と「純愛」は決してイコールではないよなあ、たしかに。

あと、「2ちゃんねる」に対してどういうイメージを持っていたかでも、変わってきますよね。あそこを、「匿名による罵倒や誹謗中傷ばかりが横行する場」としてのみ捉えていれば、「2chにもこんなに親切な人が!」って思うだろうし。

そもそも2chを知らなければ、「2chだから」感動ってことはないだろうし。

「電車男」以前にも、(恋愛絡みではないにせよ)あそこから派生したいろんなムーブメントがあったことや、意外と普段から親切な人が集う和気藹々としたスレッドもけっこうあることを知っていれば、やはり殊更に「2chで!?」ってほどでもないだろうし。(ちなみに『指輪物語』映画化スタートの直前直後の盛り上がりを覚えているトールキン・ファンで、2ch全否定って人は少ないと思うのだが、どうだろう? あそこまでレベルの高いやりとりが、初心者も古参マニアも巻き込みつつ比較的穏便に行われていたファンサイトを、私はほかに知らない。)

あと、恋愛のためにオタクな趣味を捨てられた人は、多分、もともとそんなに「濃い」オタクじゃなかったんです(笑)。だからきっと大丈夫。

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2004年11月11日

『大英雄』

映画・テレビ | 王家衛

1993年の香港映画。原題『新射G英雄傳之東成西就』、英題『The Eagle Shooting Heroes』。監督:ジェフ・ラウ。製作総指揮:ウォン・カーウァイ、アクション監督:サモ・ハン・キンポー。

DVDで。やー、これ、ものすごかったわ。こんな大馬鹿映画は、生まれて初めてです。笑い死ぬかと思った。どんなにどよどよ気が滅入っていても、これ一本で浮上しますわ。受け付けない人にとっては眩暈がするほどくだらない作品だと思うけど、これが好きだという人とは私、無条件でお友達になれそう。

旧正月映画として公開するはずだったウォン・カーウァイ監督の『楽園の瑕』の撮影が、ちっとも予定どおりに進まず停滞していたため、プロデューサーだったジェフ・ラウ自らが監督となり、撮影中断で暇になっていた俳優やスタッフをほぼそのまま流用して、『楽園の瑕』と同じ小説を原作とし、『楽園の瑕』の原題である“東邪西毒”をパロった“東成西就”というタイトルを付け、1週間かそこらで完成させてしまったという、驚きのいわくつき作品。(しかし、そもそもウォン・カーウァイに締め切りのある仕事、しかもおめでたい「お正月映画」を任せるなんて、めちゃくちゃ無謀な試みだったんじゃないでしょうか?)

そういう成立過程だから、もう、映画自体は、とことんチープでお馬鹿なんです。なのに、出演している人々は、もう二度と実現しないだろうなあ、というくらいの超豪華メンバー。

欧陽峰(トニー・レオン)が王妃(ヴェロニカ・イップ)と共に国王に対する謀反を企てたため、第三王女(ブリジット・リン)は王権の証である印章を持って逃れます。欧陽峰は占い師(マギー・チャン)の助けを借りて王女を追いかけますが、その途中で落っことした飛行ブーツが全真教のお坊さんに命中、絶命させてしまいました。彼を慕う男色家の弟弟子(カリーナ・ラウ)は、ちょうどすれ違った王女を殺人犯と思い込み、復讐を誓います。

さて、第三王女は武術の師匠を訪れて助言を請い、武術の奥義を記した経典を求めて旅立つことに。師匠のもとで修行中だった黄薬師(レスリー・チャン)は、姉弟子である王女に一目惚れし、ボディガードとしてついて行きます。薬師のことが大好きな妹弟子のジョイ・ウォンは嫉妬の虜となり、あとを追いますが、そこへ幼なじみでジョイに惚れてる洪七(ジャッキー・チュン)が登場。一方、王女の婚約者であるタン様(レオン・カーファイ)は、胸に「666」の痣のある運命の恋人から3回「愛してる」と言ってもらうことで昇天して仙人になれるという夢のお告げを授かり、婚約破棄を決意……。

ぜーはー。こ、これで主要キャラ全員、紹介文に含められたかな? 『楽園の瑕』のチャーリー・ヤンがいない代わりにヴェロニカ・イップとジョイ・ウォンが参加していて、賑やかさでは本家よりさらに上かも。とにかく、こんなストーリーを軸に、どこから突っ込んでいいのか分からないほどのコテコテのギャグがてんこもりです。

な、なんなんですか、レスリー・チャンの必殺技、「流し目剣法」って! ひー。この映画のレスリー、めちゃくちゃ可愛いですよ。こんな可愛らしく色っぽくヘタレた演技のできる人だとは、思いませんでした。さらには、ほぼ同時期にバリバリ文芸系のおフランス映画で主役を張ってたレオン・カーファイの、あの悪夢のような女装姿! そしていつもはキリッと凛々しいブリジットが演じる天然系わがまま王女の、なんとキュートなこと。本人だけが武術の達人のつもりでいるんだけど、毎回ズレてるの。怪しげな占い師マギーも、アラビアン・ナイトちっくなコスチュームがとってもお似合い。胃の中に入れられたムカデを鶏肉で釣り出そうと、あのチャイニーズ・ビューティなお顔で「あががっ」と大口を開けて釣り糸たらしちゃうんだよ。

しかし、燦然と輝くキング・オブ悪ノリ演技、究極のイメージぶち壊しチャンピオンは、断然トニー・レオンでしょう。のちにカンヌで主演男優賞を受賞することになるようなお方が、妙なターバン巻いて「イーヒヒッ、ガマ神術、其の一……ゲコッ」って。タラコ唇のメイクで涙目になって「俺、アヒル……グワッ」って。トニーさんのファン的には、あれ、どうなんでしょうかね? 惜しむらくは、日本で発売されたDVDが、何故か北京語吹き替え版であること。これはぜひぜひ、ご本人の声で聞きたいなあ。広東語バージョンの入ってる香港版DVDを買おうかなあ(こっちも吹き替えだったりするかもですが)。

あの、ストーリーがどシリアスかつ、あくまでも救いがないうえに、いつまで経っても撮影が進行しない『楽園の瑕』のおかげで、皆さん、よーーーーっぽどストレス溜まってたのかしら……と勘ぐってしまうくらい、どの人もこの人も、おっそろしいハジケっぷり。別人みたいです。よくもまあ、大スターがそろいもそろって、これだけのことを。イヤじゃなかったのかしら。あ、でも作中で女装したレオン・カーファイとレスリー・チャンが大変に阿呆なお歌に乗って踊るシーンがあるんですが、その歌って、エンドロールによると……レスリー・チャンが作詞? やっぱり、キャストもノリノリ協力体制かい。

そしてフィナーレは、お正月映画にふさわしく、どこまでも華やかに、どこまでもおめでたく。嗚呼、素晴らしい。観終ったあと、思わず叫びそうになりました。

「香港映画、万歳っ!」

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2004年11月13日

『2046』

映画・テレビ | 王家衛

2004年の香港映画。現在、劇場公開中。原題同じ。監督:ウォン・カーウァイ。主演:トニー・レオン。その他の出演者:木村拓哉、フェイ・ウォン、コン・リー、チャン・ツィイー、カリーナ・ラウ、チャン・チェンなど。特別出演:マギー・チャン。(公式サイト

やーーっとこさ、観てきました。えーと、結論から言うと、大変満足です。終盤、何度かいろんな思いが込み上げてきて涙が出そうだった。しかしこれは、今まで以上に、何度も繰り返して観て、徐々に読み解いていくべき作品かもしれないなあ。「え、え、え、今のって!? DVDで観てたら、今のとこ、ちょっと巻き戻すのに!」と思った箇所がいくつもあったよ。

あんまりストーリーを紹介しても意味ない気がするんですが、一応、ちょこっと書いてみます。あからさまに明言はされてませんが、前作『花様年華』を観た者にとっては、その続きの話として以外、受け止めにくい設定。

1960年代後半。『花様年華』のラストで、チャン夫人に「一緒に行かないか」と言えないままシンガポールに旅立ってしまったトニー・レオンもといチャウ氏は、結局そこでの生活にも見切りをつけ、香港に戻ってきます。そのときにはもう、すっかり以前のストイックさを失って、愛なんか信じない自堕落な遊び人になっていました。帰国後まもなく再会した昔馴染みのルル(今の名はミミ)の滞在していたホテルのルームナンバーがチャン夫人との思い出のある特別な数字「2046」だったため、ミミが出て行ったあと、そこに引っ越そうと考えますが、支配人には改装中だと断られ、代わりにお隣の2047号室に入居します。そしてそこで、周囲の人々をモデルにした、『2046』というSF小説を書き始めます。登場するのは、改装の終わった2046号室に越してきた気の強い美女バイ・リン(チャン・ツィイー)や、ホテル主人の娘ジンウェン(フェイ・ウォン)、その恋人である日本人青年(木村拓哉)。

事前情報では、直接的につながっているのは『花様年華』、どことなくつながっているのが『欲望の翼』、というふうに聞いていたので、こんなにもはっきりと『欲望の翼』を意識させる内容になっているとは意外でした。音楽の力は偉大だ。同じ曲が流れただけで、一気に記憶がよみがえってしまう。

もともと、『花様年華』自体が、最終的には作られることがなかった『欲望の翼』の続編的な位置付けにある、というのはどこかで読んでたんですが、実際に『花様年華』を観たときには、あまり『欲望の翼』を喚起させる部分は感じていませんでした。ところが、この『2046』で、『花様年華』と『欲望の翼』が、疑う余地なく同じ世界の話になってしまった。ああ、『欲望の翼』のスーは、やっぱり「警官さん/船員さん」とは再会できなかったんだね……。あの「チャン夫人」は、おそらくスーだったんだ、と初めて納得した。(以下、さらにネタバレ気味なので嫌な方は無視してください。)

『欲望の翼』のラストシーンで唐突に登場するトニー・レオンは、セリフもほかの登場人物との絡みもなく、したがって名前なんて必要なかったはずなのに、なぜか「スマーク」という役名がついていました。『2046』のトニーは、終始このsmirk(キザな作り笑い)を、浮かべています。周囲に本心を見せず、ずっと、本当は悲しく寂しい自分をごまかしている。そして最後にようやく、『楽園の瑕』のレスリー・チャンと同じ結論に達します。忘れようと殊更に思うものは、余計に忘れられないものだ――と。

始めのうちは何者なのか分からなかったコン・リーとのシンガポールでのエピソードの意味が、映画の終盤で説明されたときには、構成の巧さにちょっと感動しました。どーせ、撮ってるときには、どうつなぐかなんて、ぜーんぜん決めてなかったに違いないし。

カリーナ・ラウ演じるミミ絡みのシーンでは、今は亡きレスリー・チャンが『欲望の翼』で演じていた「ヨディ」の影が重くのしかかってきます。チャウがチャン夫人を心の奥底では忘れられていないのと同じように、ミミはヨディを失ったという事実を、消化できないでいる。では、チャウに出会ったときのチャン夫人=ヨディの元恋人スー・リーチェンは……? とか考えると、『花様年華』の見方まで変わってしまうよ。うわー。チャウが『2046』のあとに書いた『2047』の、「ほかの誰かを愛しているために答えをくれない」ヒロインに託していたのは、ジンウェン、それとも……。

時の刻み。ちょっとしたタイミングの違いで、すれ違ってしまうこと。忘れられない人を心に宿しながら、生きていくこと。いつかまた会えるかもという期待を抱き続けること。永遠に変わらない気持ちなんて、あるのだろうか。時間の経過が、拷問にも救いにもなりうること。

結局のところ、ウォン・カーウァイって、繰り返し繰り返し、同じことを、似たようなモチーフを使って、言い続けているんだなあ……というのを、改めて確認させてくれるような映画でした。実は、先日から続けている「独りウォン・カーウァイ祭り」(「週間」ではなくなってしまったので呼び名を変更)で、まだ感想を書いてない『恋する惑星』については、ほかの作品とちょっと違う、という文脈で語るつもりでいたんですが、『2046』を観たら、「ああ、『恋する惑星』も根っこのところは、一緒じゃん」と思ってしまった(笑)。ま、そういうところが、好きなんですけれどね>ウォン・カーウァイ作品。

あと、こういう意見はすんごい少数派だと思うんですが、トニーが酔いつぶれたカリーナ・ラウの靴を脱がせるシーンはともかくとして、チャン・ツィイーと初めてまともに会話を交わし、つれない彼女に食い下がるときの強引な物言いや微妙な笑顔までもが、『恋する惑星』でブリジット・リンに絡むときの金城武にダブってしまったのは、我ながら驚き。いくら私が金城ファンでも、トニー・レオンを見て金城くんを連想することがあろうとは。

そういえば、ずっとずっと前、まだ『2046』のキャスティングが正式発表される前、たしか金城くんの名前も一瞬だけ噂にあがっていたよね。もしも、チャウが書いている小説の中で自らを投影するキャラを演じていたのが、金城武だったら……と、思わず妄想(笑)。いや、木村さんでも、全然問題ないんですが(ただ、金城くんだったら、少なくとも「あんなに徹底して日本語しか喋らない男が、どうやって香港人の恋人と意志を疎通させているのだろうか?」という疑問だけは、生じなかったであろう)。木村さんの出てくるシーンは、なんかちょっと新鮮でした。そこだけ、ざらっと質感が変わって、現実味を帯びるような。中国語圏の人にとっては、むしろ反対で、彼の喋る日本語の響きとあいまって、現実味が薄れているのかも。

物語の中心には、常にトニー・レオンがいるんですが、女優さんが、みんなそれぞれ、際立ったキャラで、みんなそれぞれ、すごく美しく撮られてます。個人的な好みでは、フェイ・ウォンがいいなあ。

チャン・チェンは、来日しての宣伝にも加わってたし、けっこう大きい扱いで取材されてたような気がするのに、実際の出番は、私が気付いたかぎりでは3回くらい、それも1回あたり平均1秒?ってかんじでした。なんてぜいたくな(=もったいない)使い方!

チャウ氏が執筆するSF小説パートの映像は、ものすごく洗練されてはいないんだけど、「1960年代の中国人が読み捨てのパルプフィクションとして書いたSF」というコンセプトには、合っていたんじゃないでしょうか。かえって、レトロちっくで面白かった。

ところで、観終わったあと、映画館のエレベータの中で「キムタク、あんまり出てなかったね……」「あれでも、最初のバージョンから増えたらしいよ……」と語り合っている若いカップルに遭遇。わはは、ご愁傷様です。

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2004年11月15日

つかれてばかりもいられない。

もろもろ

1つ納品が終わるたびに、抑えても抑えても「夜逃げしたい」という願望がふつふつと胃の奥底から沸きあがってくるのを、意志の力でねじ伏せようとしている毎日です。

結局のところ、自分が胸張っていられないのは、自分が働くことに対して、常に「うしろめたい」気持ちがあるからなのかもしれないなあ。周囲からいつも言われる「仕事もいいけどね……」の「……」の部分を、せっかく皆さん自粛して口をつぐんでくれてるのに、自分自身が、勝手に脳内補完してしまっているときがある。

いつも納期に追われて家の中にピリピリした空気を振り撒いている私なんかより、結婚以来ずっと義父の収入の範囲内でやりくりして、毎日きっちり家事をこなして、ほんわかとしたムードで、週1回ボランティア活動に出かけていく義母のほうが、客観的な社会貢献度は絶対に高いよなあ、という劣等感を自覚したり。

独身時代、頑張って頑張って残業や休日出勤をこなしても、家族からは「いつまでも好き勝手なことをしている」としか言われなかったこと。結婚後、「20時に新しいデータが届くから今日のミーティングは21時開始ね」なんてこともある職場で、上司に「ならのさんの旦那さんは、奥さんの帰りが遅くてかわいそう」なんて言われていたこと(フルタイムで働く既婚女性は社内に私一人、という状況だったし)。

自営になっても、「ダンナがいるんだから、本当は働く必要ないんでしょ」みたいなことを、面と向かって言われたこと。夫の両親と同居することになったと言ったら、多くの人たちの反応が「仕事は続けさせてもらえるの?」というものだったこと。そうか、仕事って、「お許し」がなければ、やってはいけないものなのか。世間的には、私はわざわざお許しをもらって胃痛に耐え、お許しをもらって夜逃げしたい気持ちを日々やり過ごしているわけですな。

今の日本で普通にこの歳までお金をもらう仕事をしている女の人であれば、誰だって多少はこういうことを言われているだろうと分かっているのに、なぜか時折、すべてが脳裏によみがえってきて、どよどよとしてしまう。記憶に留めないほどに、うまく聞き流してしまいたかったのに、実は自分は忘れてなどいなかったのだと思い知る。

聞き流せないのは、心のどこかで、痛いところを突かれたような気がしているからか。「好き勝手なこと」と言われれば、たしかに自分で選んだ仕事ではあるしと思い、「ダンナがかわいそう」と言われれば、たしかに奥さんが専業主婦な同僚たちと比べれば、同居人A氏にかかっている負担は大きいだろうと納得する。

子供の頃、自分の母親が一日中、家事をしていた姿を見て脳裏に焼き付いているので、たしかに本当は家の中に「家事専従者」が一人いると居住空間が快適なんだよなあ、と考えてしまう。私が起きる前に起きて朝食を作ってくれ、一日中、掃除や洗濯や買い物やご飯の支度や縫い物や庭の手入れをやって、私が布団に入っても、まだあれこれ雑用をこなしていた母の姿を、今でも思い出す。主婦業って、真面目にやったら、いつまでも終わりがないもんねえ。正直、もし今の自分が専業主婦になったら、母が1日にこなしていただけの作業を、朝起きて夜寝るまでにやり遂げる自信なんて全然ないけれど、サラリーマンである同居人A氏のほうが自宅にいる時間が少ない以上、せめて私は努力放棄をすべきではなかったのではないか。さもなければ、「自分の食い扶持さえ稼げれば」なんて暢気なこと言ってないで、家事専従者を家に置けるくらい稼げるような仕事を選ぶべきだったのではないか。

とにかく、いったん落ち込み始めると、罪悪感がすごいのよ。サラダにかけた市販のドレッシングの味が安っぽければ、真っ当な主婦(主夫)のいるおうちではこんなもの買わないんだろうなあと思い、宅配ピザを取れば、まともなレストランのピザならともかく、これなら子供の頃に母が小麦粉を練って台から作ってくれてたピザのほうが美味しいぞと思う。箪笥の整理をしていて実家から持ってきた浴衣が目に入れば、今の私の年齢のときに母は1日もあればこんなもん縫い上げてたのに、私はこの歳でまだ親がかりだわ、と自己嫌悪に陥るし、知人が子供を産んだと聞けば、そりゃあおめでたいねえと喜ばしく思うと同時に、むかしは30歳を越した時点で子供がいない自分なんて想像もしてなかったよと遠い目になる。

義母が「お仕事してるんだから仕方がないと思って見ているの」と慰めてくれることすら、「ああ、やっぱり仕方がないから我慢しているんですね! いつか不満が爆発したりとかしませんか!?」とプレッシャーの種になってしまう。立派な被害妄想。

頭では、そんなこと、どーだっていいじゃん、と分かっているのですよ。今の家を買うときだって、私が働いてなかったら住宅ローンの借入金額がどどんと増えてる。終身雇用神話が崩れ去ったこのご時世、共働き上等。別に浴衣が自力で縫えなくたって、ボタンが付けられてまつり縫いができれば普段の生活で不便なことなど何もない。それに同居人A氏は、母が扶養家族から外れることを面子がつぶれると言って嫌がった父とは違い、仕事を減らして家事をしろなんてこと言わないし(むしろ、もっと仕事しろって言われる)、多分私よりも、家事全般に対して積極的だ(ジャンルによっては私より雑だけど)。おまけに、繰り返して言うが、正直、私には主婦としての才能は、あまりない。

なのに、どうしても「お金をもらって働くこと」に対して罪悪感やうしろめたさが消し去れないのは、もう生理的なレベルで、そういうのが染み付いてしまってるんだろうなあ。子供の頃から「女の子だからって、どうのこうの言わないでくれ!」と周囲に対して思っていたはずの私ですらこうなのだから、世間一般へのこういう感覚の浸透はさぞかし根深いんだろうなあ。

しかしそもそも、こんなことをうだうだ書いているあいだに、本当はその時間で、たとえば同居人A氏が帰宅する前に夕食のおかずをもう一品増やしたり、できたはずなんだわ。罪悪感はあっても、それを解消する行動を取らないのが私というキャラクターだ。うわははは。

実はこの文章を書くのに、3日かかってます。3日もそんなことで、うだうだしとったんか! くだらねー。でも言語化してみたら、ちょっとすっきり。とにかく、自分の脳内に「仮想の敵」みたいなのを作らないように心がけよう。

小倉千加子『結婚の条件』読了。今度感想書くかも。

克服すべきは「自己差別」である。自分の中から「恥」を追い出して「恥知らず」になれば、頭を上げてちゃんと生きていける。

だって。

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2004年11月17日

『2046』と1960年代

映画・テレビ | 王家衛

週末に念願の『2046』鑑賞を果たしたので、今まで目に入れないようにしていたほかの人たちの感想を心置きなくウェブ上で読みまくっているのですが……すごいねー、見事に賛否両論だねー。笑っちゃうくらい評価が真っ二つ。

ところでウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼』、『花様年華』、『2046』の3作は、「1960年代3部作」と言われているそうなのですが、私にとって1960年代というのは、すごく馴染みのない時代です。まだ自分が生まれてない頃なので、実体験から検索できない。かといって、「歴史」として言及されるには最近のことすぎるのか、その時代を知らない人間向けにきちんと解説してくれた記述を目にすることがあまりない。意識的に探してないせいっていうのもあると思うんですが。その時代を知ってる人同士が盛り上がってるみたいな文章は時折見かけるんですけど。とにかく、なんだか一番、実感を持って捉え難い時代だったのです。

それが『2046』を観に行く少し前のある日、ふと「もしかして『花様年華』のラストあたりの1966年って、私の両親が結婚したのと同時期なんじゃないのか?」と思い当たりました。母が死んじゃった直後に、一度だけ見せてもらった、新婚旅行写真。あれと同じ時代、海を渡ったところにチャウ氏やチャン夫人がいたと思えばよいのか。そしてその翌年の、1967年と言えば……同居人A氏が生まれてるじゃん! 私の配偶者は、60年代生まれだったのか! 気付いてなかったよ!(←おい)

そのとき、ようやく「1960年代」というのが、私の頭の中で「リアル」になったのでした。遅いね。

さて。『花様年華』の終盤、チャン夫妻が借りていた部屋の大家さんが、「娘が心配して呼んでくれたのでアメリカに移住する」と言ってて、それがピンと来なかったのです。たとえば『インファナル・アフェア 無間序曲』でラウ(エディソン・チャン)の家族がみんな中国への返還を目前にした香港から逃げちゃってる、みたいな設定は、自分の記憶にある時代だから「なるほど〜」と思えたんですけど、1960年代後半の香港で、そんなよその国へ逃げなきゃいけないほどの不安要素って何だったの?……って。恥ずかしながら、全然分からなかった。中国の文化大革命はその頃だけれど、香港はそのときイギリス領だよねえ?? という程度の認識しかなかったのだ。

そうしたら、今度は『2046』の中で、「暴動」が起こってトニー・レオンもといチャウ氏が出歩けなかったりしているではありませんか。あらまあ、やっぱり香港もそういう物騒な時代だったのね! 日本の60年代もよく分かってない私が、外国の当時の情勢を理解しているはずもないんですが、それにしても、香港で暴動が起こっていたってことを、私はまったく知らなかったよ。大戦後はイギリス領として比較的安定していたようにイメージだけで思い込んでました。学校の世界史の授業でも、現代パートは駆け足だったしなあ。

そもそも私、香港映画が好きになりましたとか言ってるわりには、香港そのものに関する知識、なさすぎ。というわけで、今更ですが、段々とあの辺のことに興味が湧いてきています。

とりあえず、ウェブをぐるぐるしていて、All About: 興味深い香港史というリンク集を発見。ちょっとずつ回ってみようっと。

映画の中に出てきた「暴動」については、nancix diary: 香港大暴動と「2046」で分かりやすくまとめてくださっているので、感謝しつつリンクさせていただきます。

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2004年11月23日

『天使の涙』

映画・テレビ | 王家衛

1995年の香港映画。原題『堕落天使』、英題『Fallen Angels』。監督:ウォン・カーウァイ。出演:レオン・ライ、ミシェル・リー、金城武、チャーリー・ヤン、カレン・モク他。初めて日本で劇場公開されたときに一度、その後はビデオやDVDで数回鑑賞。【Amazon.co.jp】

突然ですが、一回だけ、香港に行ったことがあります。1995年の秋、職場の慰安旅行でした。観光バスの窓から、当時まだ日本公開されていなかった『堕落天使』の看板が見えました。同年の夏に『恋する惑星』を観て衝撃を受けたばかりだったそのときの私にとっては、「香港といえばウォン・カーウァイ!」でしたから、本気で悔しゅうございました(笑)。おじさんたちと観光するより、あれ行きたーい……って。広東語まるっきり分からないヤツが、香港で字幕なしのを観たって仕方ないのに。

しかしながら実際に観てしまった今、私がウォン・カーウァイ映画の中で一番、どう受け止めていいものやら分からないでいるのが、この『天使の涙』です。観れば観るほど、受け止め方に迷う。決して嫌いではないんですけれど。

この映画が『恋する惑星』に盛り込めなかったエピソードから発展した作品だということを知って以来、これと『恋する惑星』が、まるっきり違う映画になってしまっているのは何故だろうかと、繰り返し考えています。もちろん、さまざまな設定や小道具やロケーションやセリフに、『恋する惑星』の片鱗はあります。でも、おそらく最初に観たウォン・カーウァイ映画がこっちだったら、観るなりどっぷりハマることはなかったと思うんだよなあ。

なんかね、映画全体が、まるで夢の中を、もがきながらさまよっているみたいに、自分から遠いんです。「ここはどういう世界なの?」というチャーリー・ヤンのセリフを、そっくりそのまま、いただきたいくらい。そこが面白いと言えば面白くもあるんですが。

この『天使の涙』のオモテのキーパーソンである殺し屋のレオン・ライって、ウォン・カーウァイ映画のすべての主役級キャラの中で、一番、輪郭がはっきりしていないこと、ないですか? 結局のところ、どういう人なのか。何考えてるのか。何が望みなのか。それを一番、自分でも分かっていないっぽい。すごくもどかしいのです。執着しているものが、まったく何もなくて、なんでも捨てることができてしまう。「だれにでも過去が」なんてモノローグを吐いておきながら、一番「過去」の存在を感じさせない。そして「未来」は、とても遠いところにあって、いつも疲れたような顔をしている彼の手でつかめるとは到底思えない。

(ついでに言うと、なんの先入観もなかった初見の頃と違って、レオン・ライ主演『ラブ・ソング』なんつー名作を知ってしまい号泣体験を経た今は、どんなにクールなレオン・ライを見ても、ぜーーーんぶ「人のいい純真な田舎者の兄さんが都会で頑張ってます」と思えてしまうよ……(ファンの人ごめんなさい)。でも絶対、あっちのほうが「当たり役」だよねえ?)

では、彼以外の主要キャラはどうかと言うと、誰もかれもみんな「妙」でぶっとんでるのに、やっぱり、そのアクの強さゆえに、私にとっては、非常に現実感が薄いのです。カレン・モクの金髪娘とか、正直、あのキーッという声やクネクネしたしぐさがカンに障ってすげー苛々するんですけど(女優カレン・モクは好きよ)。

この監督の作品って「すれ違い」の物語ばかりではあるんですが、この映画では、それが突出しています。主要キャラたちは、「対話」さえ満足にできない。一方では、一度も顔を合わせることなく電話やFAXと「部屋の掃除」のみを介してつながっている殺し屋とエージェント。もう一方では、言葉が喋れず、ほかの人の言うこともどこまで理解しているのか怪しいモウこと金城武。とにかく、ずーーーっと一貫して、「かみ合わない」、「届かない」という思いがあって、すごく観ていて居心地が悪い。でも多分、そこがこの映画のキモなんだろうなあ、とも感じる。

さて。この映画のウラのキーパーソン(と、勝手に定義)である、金城武。なんだかんだ言っても、この作品を特異なものにしているのは、彼の存在ではないかと思います。ほかの登場人物は、もしかしたら別の俳優さんでもやれたかもしれない。でもこの口の利けない「モウ」という青年は、この時期の金城武以外では、絶対に成立しなかったキャラだと私は確信しています。

殺し屋のエピソードと、モウのエピソードは、ほとんど交錯しません。この2人が同じシーンに登場するのは、ただ一度、それも居酒屋の客と店員という、ほぼ通りすがりの関係。でも、同時進行なんだよね。なんていうか、金城くんの物語は、淡々と一本線をたどって進んでいくレオン・ライの物語の上に、ポンと乗っかって、交わることなく、あっちに行ったりこっちに行ったり、また戻ってきたりしつつ、浮遊している。その浮遊感は、当時「まだ海のものとも山のものともつかない」役者であり、今もまだ「自分がどこの国の人なんだかさえ分かっていなさそう」な彼にしか出せなかったんじゃないかと。

撮影中、セリフのない金城くん登場シーンの脚本には「武、入る」としか書かれておらず、あの演技の多くは自然に出たもの……というのは(金城ファンには)有名な話です。ひたすら無表情に、すべてのものを淡々とやり過ごしていくレオン・ライに対して、金城くんはとにかく、セリフがない分、表情もジェスチャーも全開で、どんなものにも体当たり。なんか今観ても、金城武の初期の仕事の頂点だなあ、と思います。ウォン・カーウァイ、金城くんの素質を最大限まで引っ張り出してくれて、ありがとう(しみじみ)。

そしてその浮遊していた金城武と、殺し屋をめぐる一本線をたどっていたエージェントの女とが、初めて「すれ違う」だけに終わらなかったラスト。そのとき最初から一貫して夜っぽい映像ばかりだった画面に、初めて白み始めた夜明けの空が映り、「永遠」という言葉が肯定的な文脈で語られる。その瞬間だけの「体温」が、いきなりリアル。ああ今、夢から醒めたなあ、というかんじ。

このエンドロール直前の数秒のために、私はやはり、ここまでの「もどかしさ」を耐えてでも、これからも時折この映画を観直してしまうに違いないと思うのです。

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