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2004年11月 3日

『いますぐ抱きしめたい』

映画・テレビ | 王家衛

1988年の香港映画。原題『旺角(上/下)門』、英題『As Tears Go By』。監督ウォン・カーウァイ。出演アンディ・ラウ、マギー・チャン、ジャッキー・チュン。【Amazon.co.jp】

これも『欲望の翼』と同じく、8年前に職場の香港電影迷の人にビデオを借りたとき以来、ずっと観てませんでした。こっちはあのときが最初だったので、今回で2度目。そして……はい、これもアンディ・ラウが出ていることを、すっこーーーんと失念していましたともさ。マギー・チャンもジャッキー・チュンも覚えていたのに! アンディ、主役じゃん! しかも役名まで「アンディ」じゃん! どうなってるんだろう、私の記憶力。

でも映画の内容は、8年も経つのに、大体のところは覚えてたし、好きなシーンが来るまでのシーケンスなんか、すごく詳細に記憶に残ってた(だからますます、そのシーンを演じているのがアンディ・ラウだと認識できてなかったのが我ながら謎)。マギー・チャンが初々しくて、可愛かったです。

ウォン・カーウァイの、監督デビュー作。言われなきゃ、これがウォン監督の映画だなんて分からないくらい、ごく普通の、古風とさえ言えるほどの、メロドラマチックなチンピラ映画。ちゃんと脚本どおりに作りましたってかんじの(笑)。ところどころ、「ああ、好きだなあ」とか「やっぱり、この頃から見せ方がうまかったんだなあ」って思うんですけど。特に後半。

最初に観たときは、とにかくジャッキーが印象に残ってました。「ひとかどの者」になりたくて、でもそんな実力はなくて。なのにそれを見極められなくて。故郷にも、もう自分の居場所はない。だったら刹那的にでも、パッと派手に。何度も窮地に陥り、敬愛しているはずの兄貴分アンディに迷惑をかけまくっても、繰り返し繰り返し常軌を逸した行動に出て墓穴を掘ってしまう痛々しい姿は、異様ですらあります。

だけど改めて観ると、いくら「弟分」だからって、周囲の忠告に逆らってまでとことんジャッキーの尻拭いしてやって、自己犠牲の域に行ってしまうアンディも、ちょっと壊れてんじゃないのかなあ、なんてことも思ったり。ジャッキーに依存されているようで、実はアンディのほうが、過去の自分を重ね合わせて理性の飛んじゃってる彼を救い続けることで、自分を理性の側に置けてたり、先のことを考えない自分を正当化できてたりするのかなあ、とか。そしてマギーとの恋愛ですら、それを覆すには至らない。積み重ねた時間の差? マギーに惹かれた時点で、彼は「先のこと(生存すること)」を考えざるを得なくなるはずなのに。

マギーとアンディは、直截的な言葉を交わす恋愛描写って、クライマックスまではほとんどないんだけど、出会ってしばらくした頃の見交わす視線や、お互いの気持ちを量りかねているような微妙な表情にどきどきしました。で、再会してからの流れが、キザすれすれだけど(いや実際キザか)、かっこいいんだなあ。「隠したグラスを」って……うわああ。

でも、マギー・チャンが今でもウォン・カーウァイの映画の常連メンバーなのに、アンディ・ラウが、初期の2作のあとはウォン・カーウァイ的な世界とは遠いところにいるかんじなのは、個人的な思い込みがあるかもしれないけど、なんとなく分かる気がします。

【11/4追記】
上で、「言われなきゃ、これがウォン監督の映画だなんて分からない」って書いたんですが、あとになって、この映画における「アンディとジャッキーの物語」と「アンディとマギーの物語」のあの分断状態は、ちょっとその後の作風に通ずるところがあるのかなあ、なんてことも、思わないでもなかった。こじつけっぽい気もするけど。

『恋する惑星』で、金城武とフェイ・ウォンが、一瞬すれ違っただけで、それぞれ別々の恋愛物語の主人公となるように。『天使の涙』で、金城武のエピソードとレオン・ライのエピソードが、ほとんど交錯しないように。

マギーとジャッキーが面と向かって言葉を交わすシーンは皆無で、同じ場面にいるのも、たった一度。アンディが自分やジャッキーの居住地である九龍から、ランタウ島にいるマギーにかけた電話は、マギーの不在により、取り次がれることなく終わる。ランタウ島をあとにしたアンディへの、マギーからの言葉は、いつも本人の声ではなく、ポケベルによるメッセージング・サービスのオペレータによって伝えられる。アンディにとって、マギーとジャッキーは、それぞれ別々の世界の住人なんだよな。で、アンディがマギーのいる世界に落ち着こうとし始めると、必ずジャッキーが無自覚なまま自分の側に引き戻すのだ。

【さらに補足】
アンディ・ラウには、シビアに観客の目を意識した分かりやすいエンターテインメントの世界で、自分の演技を自分で完全にコントロールしつつ、作り手側(主に監督)と対等な立場で「プロ」に徹するタイプの俳優であってほしいなあ。役者の「実像」と「演じているキャラ」のボーダーラインをわざと揺らがせることによって成立する作品や、「げーじゅつって、何?」と考えてしまうような作品の素材の一つとして扱われるのではなく。で、幾つになっても「アイドルスター」なの。

金城武については、今の彼だったらウォン・カーウァイにどう料理されるのか、見てみたいような気がします。

Posted at 2004年11月 3日 22:36



All texts written by NARANO, Naomi. HOME