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2005年4月 1日

4月1日

映画・テレビ

ちょうど昨日から、仕事の合間の息抜きに、フランス文学者で翻訳家の野崎歓さんによる香港映画評論の新刊、『香港映画の街角』(青土社)を読み始めたのだけれど、いきなり冒頭から狙ったように、香港スター張國榮(レスリー・チャン)が亡くなったときの話が始まっていて、なんだか今日になっても、というか今日だからこそ、朝からどんよりとしています。なんつータイミング。

2003年4月1日、香港映画ファンが集う掲示板をぼーっと見ていると、誰かが「向こうのニュースでレスリー・チャンが飛び降り自殺したと言っている」と書き込んだのでした。最初は、エイプリル・フールとはいえ悪趣味な……中国系の人って、こういうジョークで笑えちゃうのか? などと、と呆れていたものです。まさか、本当に亡くなったとは思わなかった。段々、続報が伝えられて信憑性が出てきて、でも中国語の分からない者は、分かる人が訳して書き込んでくれる情報を受け取ることしかできないので失礼ながら微妙に半信半疑で、でもそのうち日本のニュースサイトにも記事が掲載され始めて、信じるしかなくなって……。

次の日、ほとんど何も手につかなかった。自分でも、なぜあそこまでショックだったんだろうと思います。直接知ってた人じゃなくて外国の芸能人で、ましてや私、もともと別にレスリー・チャンのファンではなかったはずなのに。ファンではなかったから、当時、サイトでは何も書けなかったし、今も本当は、命日に何かを書くことに対しては、逡巡しています。中途半端な思いを書いて晒すと、正真正銘のファンだった人たちに、申し訳ないような気がして。

ただ、よくも悪くも、アクの強い人だったなあ、と。そのアクの強さがどちらかというと苦手だったんだけど、だからこそ同時に、ほかに好きな俳優さんの出ている映画を観ていてさえも、彼がいるほうへ視線を引きずられることがあった。そしてそのせいで、余計に苦手になったんだと思う。むりやり、目をそらしていたような。ほかにあんな人はいない。

そして今やっぱり、レスリー・チャン亡きあとの香港映画の世界って、彼がいた頃よりも、ちょっとだけ色あせているような気が、どうしてもします。ファンじゃなかったんだけど。好き嫌いにかかわらず、とにかくあそこにいなければならない人だったのだ、というような。

香港映画ファンにとっては、まだまだ4月1日は、しんみりと故人を偲ぶ日にならざるを得ないのだと思います。よりにもよってエイプリル・フールの日が選択されたという事実さえもが、彼のイメージの強化につながっている。どっかで、あっけらかんと「何もかもウソだよ」と人を食ったような笑みを浮かべてふいっと出てくる姿を、今でも想像してしまうのです。彼のことをよく知ってる、本当のファンの人にとってはどうだか分からないけど、ほんの数本、映画を観ただけの私が抱いているイメージだと、そういうかんじ。

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2005年4月 9日

ロバート・J・ソウヤー『ホミニッド―原人』

読了本 | 書籍・雑誌

内田昌之・訳、ハヤカワ文庫SF、2005年2月刊。【Amazon.co.jp】

原書はRobert J. Sawyer "Hominids" (ハードカバー2002年/ペーパーバック2003年)【Amazon.co.jp】

発売直後の2月末に読んだものですが、2月の読了本メモのところで、この本についてだけ、ほとんどコメントらしいコメントを書かなかったので、一応、改めて。あんまり「楽しく読みました」的な感想じゃないので、それでもOKな人のみどうぞ。

「ネアンデルタール・パララックス」三部作の1冊目。なんかこう、「ソウヤーてんこもり」なんだよね。並行宇宙、量子コンピュータ、異種族同士のファースト・コンタクト、科学者の中年カップル、異なる文化や思想の衝突、おまけに法廷ドラマと、これまでのソウヤー作品のどれかで見かけたネタばっかり。人間の倫理観や《超越者=神》の存在・不存在問題が出てくるのも、なんだかものすごく「ソウヤーっぽい」と感じる。

けれども、そうやってどっかで見たようなネタを繰り出しつつ、その料理の仕方自体は、やっぱり上手いし、緊迫感のあるストーリーテリングは健在。ネアンデルタール人が地球を征している別の宇宙での、ホモ・サピエンスのものとはまったく違う社会構造の設定の緻密さも楽しい。面白くてとっつきやすいSFを求めている人がいたら、迷いなくおすすめできると思います。客観的見地では。

ところが実は、個人的には、この作品を以前ハードカバー版で読んだときに「ああ、もう私ソウヤーにはついていけないかもしれない」と思って、それ以降この作者を原書で追いかけるのは止めてしまっているのでした。改めて日本語で読んでもやっぱりちょっとしんどかった。

ひとつには、以前の作品 "Factoring Humanity" あたりでも間接的に言及があってすごく読んでてつらかったのだけれど、作中でとある分野に属する後味の悪い行為がモチーフとして使われていること(今回は直接描写もあり)。もちろんソウヤーはものすごく善意の人なので、一貫してそういうのを“許されないこと”として書いているし、登場人物にとっての“救い”となる要素もストーリー内に用意されているんだけど、読んでるこっちは、エンターテインメント作品の中で、決して当事者とはなりえない作家が、ストーリーを都合よく進めるための歯車としてこういうネタを使用すること自体に、割り切れなさを感じてしまうのだ。過剰反応かなあ、とは思うんだけど。ついでに言うと、今回の作品ではそのテーマ上、生物学的に「生々しい」話もちょくちょく出てきて、これを男性であるソウヤーが女性を主人公(の一人)に据えて書いてるのか、というのもちょっとイヤ(苦笑)。こういうのに、いい歳していちいち拒否反応を示すのって、カッコ悪いことなのかもしれないと思いつつ、でもやっぱり私は娯楽のために読む作品で、こういう居心地の悪い思いをしたくない。駄目な読者ですみません。

さらに、毎回“異なる価値観同士の出会い”というのを描きつつ、「結局のところソウヤー自身は、キリスト教の価値観で育った人だなあ」と感じさせる部分が、年々強くなってるような気がするのも、非キリスト教徒(というか、キリスト教徒の親に育てられたけど自分の意志で外に出た人間)としては、読んでてきついいものがある。これも、個人的な事情ではあります。

骨子となる部分は楽しんでいるので、日本語でつづきが出たら、また読むと思いますが。

ところでさっき、自分の過去の読書感想文を読み返してみたんだけど、どうも前作 "Calculating God" でもすでに、かなり私はソウヤーから引き気味ですね(当時、「別途、紹介文を書く」とか言ってたくせに、結局書いてないし)。

ただ、現在でもやっぱりソウヤーの作品には泣くほど好きなのもあるので、「私はソウヤーのファンです」と主張することをやめる気はしないんだよなあ。『占星師アフサンの遠見鏡』のつづき("Fossil Hunter""Foreigner")を、ぜひぜひ日本語で出して心置きなくネタバレ談義ができるようにほしいのだが、なんだかもう望み薄っぽい?

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2005年4月10日

野崎歓『香港映画の街角』

読了本 | 書籍・雑誌 | 映画・テレビ

青土社、2005年2月刊行。【Amazon.co.jp】


あとがきで「遅れてきた香港映画ファン」を自称するフランス文学者による評論集。私はこういうのを読みたかったんだなあ、と思ってしまったのは、私自身もまた、著者よりもレベルはぐっと低いけど、昔の香港映画ブームには乗り遅れたファンであり、アクションものやカンフーものから入った王道香港映画ファンとは、ちょっとアプローチが違うからかもしれません。

表紙からして王家衛監督の『花様年華』 (2000)の1シーン、表紙裏の見開きは『2046』 (2004)が封切りされた香港の街の風景写真、というあたりからして、「いかにも」ではある。出版されるギリギリ直前くらいまでの、新しい映画への言及がかなりあるのと同時に、古典的な定番作品を決して「観ていて当然」のものとして書いてないのも、新しいほうから古いほうへと時系列を逆走中の「遅れてきたファン」にはありがたい。

著者がフランス文学者であることと関係があるのかないのか分からないけれど、読んでて馴染みやすいような気がしました。普段は西洋文学を論じている人の文章だからだろうか? 視点が、あくまでも香港に対して自分を「異邦人」の位置に置いたものとなっているから、というのは大きいと思う。今まで日本人として違和感を覚えても「ああ、それは当たり前のことだから。香港映画を観るなら慣れてね」のひとことで済まされてきたようなことに、理屈付けをしてもらった気分。

日本では公開されていないようなマイナー作品もけっこう取り上げられているのに、マニアックな雰囲気が薄く間口が広く感じられるのは(とはいえ、知識豊富な人ならさらに楽しんで読めるのでしょうけれど)、全体に通ずる風通しのよさゆえ? ジャンルを越え、時代を越え、思わぬキーワードを媒介にしていくつもの映画がリンクしていくのが、スリリング。

しかし、こういうの読んでると、観たい映画がどんどん増えるなあ。

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2005年4月12日

マペ権侵害じゃないんですか

映画・テレビ

先週出たニュースなので、すでにご存知の方も多いかと思います。この日常雑記ページでは、時事問題は扱わないと決めていたはずなんですが、これはちょっと我慢できません!(って、これ時事問題なんだろうか?)

米国産の長寿子供番組「セサミストリート」で、いつもクッキーを皿ごともりもり食べてたクッキーモンスターが、これからは時代の流れに合わせて健康志向だそうですよ。

Yahoo! NEWS(4/9)より「セサミ」も健康志向に=モンスターがクッキー卒業−米

「クッキーがあれば大満足」と歌うクッキーモンスターは今後、「クッキーは時々食べるもの」と歌詞を改める。

英文では、検索するといろんなサイトに同一記事が載ってるんですが、たとえばCNN 4/7の記事とか。うわー、野菜や果物に囲まれたクッキーモンスターの写真が! クッキーは、手の届かない場所に1枚、ちょこんとあるだけですよ!

この記事によると、「クッキーは時々食べるもの (sometime food)」というテーマソング(っていうのか?)自体は、最後に「今って、その“時々”?」「そうだよ!」というやりとりがあって、クッキーモンスターはめでたくクッキーを食べましたとさ、というオチらしいんだけど。

でも基本は、「クッキーはいつでも食べていいもの (anytime food) じゃないんだよ」という、視聴者の子供の皆さんに節制を説く歌だとか(The song will preach restraint... cbc.ca 4/8の記事より)

いくらアメリカで子供の肥満が問題になってるからって、セサミストリートのマペットに、人間の栄養基準を押し付けてどうするんだよ! 大体、名前からして「モンスター」なんだよ? 私たちとは別の生き物なんだってば! 番組製作側がなんと言おうと、クッキーモンスターが人間と同じ食生活をするのって、ぜーったい不健康っぽい!

コアラがユーカリの葉を食べ、パンダが笹を食べるように、「クッキーモンスターはクッキーが主食だからクッキーをしっかり食べてヘルシー」という設定で、どうして駄目なんだろう? いろいろバランスよく食べるクッキーモンスターって、なんかちがーーーうっ!

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2005年4月22日

インファナル・アフェア III 終極無間

映画・テレビ

2003年の香港映画。監督:アンドリュー・ラウ、アラン・マック。主演:アンディ・ラウ、トニー・レオン。(公式サイト

日本での正式公開初日だった4月16日に観て来たんですが、その後あれこれと忙しくなってしまって、今まで感想書けずにいました。

待ちに待った3部作の完結編。2作目「インファナル・アフェア II 無間序曲」は、1作目「インファナル・アフェア(無間道)」よりも前の時代にさかのぼった話だったので、今回のがストーリー上は、1作目のつづきとなります。もう、観てたら脳味噌がぐるぐるしてきて、すんごい疲れたー。緊迫感の持続性、話の展開の読めなさでは、今回も1作目に負けてません。何を書いてもネタバレになってしまうよー。うがー。

ただ一つ言えることは、この3部作が、一貫して「ラウの心の弱さ」に焦点を当てたものであるということです。いや、ラウびいきの私が言っても説得力ないかもですが。ウェブをあちこち見てると、少なくとも1作目の段階では、もう一人の主人公「ヤン」(トニー・レオン)に感情移入する人が圧倒的に多かったようなのですが(香港アカデミー賞で主演男優賞を獲ったのもトニー・レオンのほうだしね)、私は最初からずっと、ラウというキャラクターが興味深いなあと思って観ていました。

少年期に、ある年上の女性に出会ってその歓心を買うために道を踏み外し、彼女に寄せた一途な想いに応えてもらえずじまいだったことで、抱えた歪みをどんどん増幅させてていくラウ。誰にも心を許せないまま、実はマフィアの一員である警察官として表面的にだけは巧く立ち回って順風満帆だったラウ。もっと本質的なところで強い精神を持って軌道修正できてさえいれば、自らの欲望に翻弄されず、早いうちに「こうありたい自分」を確固として保つことができてさえいれば、無間道に落ちることはなかったのかもしれない。でも、できないんだよな、彼には。

ラウの対角線上のポジションにいるヤンは、そんなラウの弱さを強調するかのように、あくまでもまっすぐな、強い人間として描かれます。特に、生前のヤンの行動を調べ始めたラウの視点でのヤン像が入り込んでくるこの第3作では。ヤンの場合、潜入捜査官として黒社会の面々と一緒に生活をしつつも、善人でありたい、警察官でありつづけたいという気持ちは、消えることがない。だから、たとえ血を分けた肉親であっても犯罪者は犯罪者として告発するし、たとえ自分の命がかかっていても、他者の命を奪えない。その一方で、たとえ日陰の身のままであっても、彼を好いてくれる人々はちゃんと現れるし、ほんの一瞬だったかもしれないけど、心を通わせることのできる相手にも遭遇する。

ヤンのようになりたいと願いつつも、愛憎や保身のために殺人だって犯してしまうラウは、本当は、いくらあがいたって、ヤンにはなれっこないのです。その彼が、静かに静かに、引き返せない地獄の中へと引き込まれていく過程を、この3作は丹念に描いています。そもそもの初めに、ヤクザの妻にどうしようもなく惚れて、その頼みごとを聞いてしまうということがなければ、彼の本質的な心の弱さも、彼の本質的な器の小ささも、ごく普通のありふれた人生を送るうえで、さほど障害にはならなかったのではないかと思うのだよね。だからこそ、すごく哀しいし、踏み外すというのは、こういうことなんだ……と思うと、背筋がぞくりと寒くなる。

1作目が本当に鮮烈で、あのラストも私にとっては「あれしかない!」ってものだったので、そこからいったいどうやって続編を作るんだ? 蛇足にしかならないんじゃないか? と、観る前は不安いっぱいでした。で、結局、1本1本でなら、やっぱり一番完成度の高いのは、1作目だったんじゃないかと思います。ただ、この3作目を観ちゃうと、もうこのシリーズは、3本まとめて1つの作品と評価するしかなくなってくるんですよね。

1作目が単独でも強烈なインパクトを持っていたのに対して、この「終極無間」は、前の2作がなければ、成立しえない作品です。この作品そのものが、ジグゾーパズルのように時系列を細切れにして断片を積み重ねていきながら全体像を浮き上がらせるという構造になっているだけでなく、これまでの作品もまた、実はパズルのピースであったことが判明したというかんじ。時系列を思い切りシャッフルして、1作目のストーリーが始まる直前までのエピソードをも挟み込んだこの作品があることによって、前の2作までもが、様相をがらりと変えてしまうのです。

面白いな、と思ったのは、この3部作、個々に考えるとそれぞれ、属しているジャンルが違うんです。1作目が香港映画のイメージをくつがえしてくれたほどシャープでスタイリッシュな印象を持つ警察モノだったのに、2作目はむしろ、あるマフィア一族の没落を核とした、ウェットな義理としがらみの裏社会を描く伝統的な香港ノワール。画面の雰囲気が、まるで違います。そして今回は……なんだろう、こういうの。1作目のラストで無間地獄に落ちることを決定的に運命づけられたラウのその後の危うい精神状態を、執拗に執拗に描いていくこれは、どう見てもサイコ・サスペンス? なのにやっぱりこの3作は、はっきりと1つの作品世界に属するものでもある。面白い。

あと、3作目の予告編を見た段階で「アンディ・ラウとトニー・レオンの共演ってだけでも充分にコテコテなのに、ここにまだレオン・ライなんていうビッグ・ネームを投入ですか! 胃にもたれそうだよ!」とか思っていたわけなんですが……すみませんでした。レオン・ライくらい存在感のある人を持って来てようやくバランスが取れるほどの重要な役どころでした。鬼気迫る演技を披露するアンディ・ラウと丁丁発止に渡り合える人じゃないと。このシリーズ、どの役者さんも、よかったなあ。

それから……白状します。今まで、あれだけこのシリーズ好きだ好きだ大好きだと言っておきながら、3部作の3作目まで観てようやく、タイトル 「インファナル・アフェア」の "Infernal(地獄)" が "Internal(内部)" とかけてあることに気付きました。中国語タイトルが「無間道(日本語で言うところの無間地獄)」だっていうのに気を取られすぎました。がくり。

ラウが所属する香港警察の「内務調査課」の英語名称自体が、"Internal Affairs" だよ……。映画の中でラウが電話に応対するのを聞いてやっと気付いた。

さらに、1989年のリチャード・ギア主演映画「背徳の囁き」の原題がモロに "Internal Affairs" で、これがロサンゼルス市警の「内務調査員」の話らしいんだな。おそらく、これも念頭に置いたうえでのタイトルでしょう。

こういうの、1作目が公開されたときに映画のパンフとかに、いろいろ書いてあったのかなあ。つくづく、その頃にはまだノーマークだったことが悔やまれます。

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2005年4月30日

2005年4月に読んだ本

読了本 | 書籍・雑誌

今月はほんと、読まなかったなー。買った本はほぼ積んだまま放置、借りた本はほぼ未読のまま返却。しくしく。


野崎歓『香港映画の街角』(青土社, 2005年2月)
すでに感想書きましたが、非常に感銘を受けました。【Amazon.co.jp】

アグネス・チャン『アグネスの《旅》香港指南』(扶桑社, 1997年1月)
図書館本。別に近々香港に行く予定はないんだけど(あったら、ちゃんと情報の新しいやつを自腹で買います)、なんとなく香港ガイドを何冊か借りてみたうちの1冊。講談社から出ていた『アグネスの香港指南』(親本1985年、文庫1989年)に加筆、訂正したもの。情報は1997年のものに更新されています。どっちにしてもイギリス返還前だから、古いのは古いんだけど、さくっと読みやすかったです。本質的にはもちろん「旅行ガイド」なんだけど、ところどころ変に生活感あふれるコメントが見られるのがツボ。【Amazon.co.jp】

松村栄子『雨にもまけず粗茶一服』(マガジンハウス, 2004年7月)
松村栄子って、福武書店(ベネッセですらなかった)から純文学を出してた時代しか知らなかったので、久々に手に取ってみたこれが、思いっきりちゃんと起承転結のあるエンターテインメントしていたことに、面食らった。いつから作風変えたの? 私が誤解していただけ?
東京の茶道の家元の長男が、跡を継ぐのが嫌で家出。ところがなりゆきで大嫌いな京都に連れて行かれることになり、偶然茶道の先生のところに居候する羽目になり。お茶に関わるのが嫌で、一生懸命「茶? それ何?」という態度を取ってるのに、うっかり身に染み付いた動作で疑惑を招いてしまうあたりは、微笑ましい。
ただ、この「親から茶道を押し付けられてた跡取息子が反発して離れてみたものの、結局は自分の意志で茶の道を選びなおすまで」という物語は、結局のところ、「育った環境」は大きくなってから出会ったモノではくつがえせないくらいに強固なのね……という結論にも落ち着いてしまうわけで。最終的に自分の意志で選んでるったって、そもそもお茶の素晴らしさを彼に教えたのは周囲の環境だもんなー。それが悪いわけじゃないんだけど、ちょっと悔しいような気も。 【Amazon.co.jp】


以下、漫画本。


吾妻ひでお『失踪日記』(イースト・プレス,2005年3月)
いろんなところで話題ですね。鬱やアルコール中毒を経験している著者が、失踪中のホームレス生活や入院生活を漫画作品にしたもの。あくまでも作品として普通の人が読んで面白い内容にしちゃってるので、ほんとにどん底に悲惨な部分は出してないはずなんだけど、充分に迫力。あのキュートな絵柄のままで「目にする何もかもが怖い」妄想状態を表現しているコマがすごいなあ、さすがだなあ、と思ったら、巻末の対談で、とり・みきも褒めていた。【Amazon.co.jp】

あしべゆうほ『クリスタル☆ドラゴン』23巻(秋田書店,2005年4月)
いつも忘れた頃に新刊が。これ、いつから続いてるんだっけ? いろいろもう頭の中がぐちゃぐちゃになっているので、一度、全部読み返してみたいんだけど、単行本があちこちに散逸しているので適わず。ああ、所蔵本の整理をしなければと思いつつ幾星霜。【Amazon.co.jp】

よしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』(太田出版,2005年4月)
漫画家の「Yなが」が、アシスタント「S原」らをはじめとした周囲の人々と美味しいものを食べ歩く話。お話はフィクションだけど紹介されているお店は実在、とのことで、グルメ・ガイドとして実用できるようになってます。なまじっか、著者本人としか思えぬキャラをメインに据えてエッセイ漫画のように仕立てているだけに、つい「どこまでが本当?」と思ってしまうのですが、それを言うのは野暮というものなのでしょう。
『西洋骨董洋菓子店』ではお菓子に特化されてたけど、本当にこの人は、食べ物を美味しそうに情熱持って描くなあ。【Amazon.co.jp】

浦沢直樹・手塚治虫『PLUTO』第2巻(小学館ビッグコミックス)
「原作」の手塚治虫バージョンを読んでないので、どこからが浦沢さんのオリジナルなのかは分からないのですが、すごく面白いです。もとの『鉄腕アトム』を知らない分、「これからどうなるんだ!?」と手に汗握っていますよ。しかし私、アトムがサーカスに売られた子だったというのも初めて知ってびっくりだったんですが。多分これは、作中の扱われ方から見て、原作準拠だよね? やはり、手塚漫画くらいは、古典教養として押さえておくべきか?【Amazon.co.jp】

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All texts written by NARANO, Naomi.