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2005年6月 5日

2005年6月上旬における近況報告

近況

●すっかりサイトを放置してしまっていますが、生きてます。思うところあって最近(といっても、けっこう前)、Movable Typeに移行する前の「虫のいい日々」(2003年12月9日まで)を、サーバ上から削除しました。

●今後は、個人を特定される可能性の高い記述や、間接的にでも仕事に触れた記述(要するに愚痴)をなるべく抑えて、その代わりもうちょっとオープンに(具体的に言うと、検索避けタグを外して)運営してみようかなあ、などと考え中です。まだ考えてるだけの段階だけど。

●更新をサボっているあいだに、誕生日を迎えました。ああ、また1年、息災でいられましたよ。今年に入ってすぐの頃、1歳違いの知人が突然亡くなったという知らせを受けて呆然……ということがあったので、今までにも増して、「生きてるだけでめっけもん」なんだなあ、と改めて実感しています。

candles.jpg

●誕生日当日は、急ぎの仕事が入っていたので遊びにはいけなかったけど、同居人A氏に家から5分のとこで夕食をおごってもらいました。デザート・プレートのケーキにろうそくがついていたよ(びっくり)。写真ではよく分かりませんが、全体にかかっている黄金色の飴細工がきれいでした。

●そして、毎年、この時期になるたびに言ってますが、在宅労働者になって丸4年が経ち、めでたく5年目に突入しました。なんとかまだ仕事がもらえていて、やれやれです。なんだか、かなり自転車操業な気がしますが。

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2005年6月11日

熱愛宣言(2003.11.4 初出)

書籍・雑誌

Movable Typeに移行する前の過去記事を削除したものの、現行の「虫のいい日々」内の別の記事などからリンクして言及しているものについては、削除したままだとなんとなく落ち着かないので、とりあえず少しずつサルベージしてこっちに再録してみることにしました。

ハリー・ポッターは、あと1ヶ月ちょっとで、また新刊が出ますねえ。


前からこのページをご覧になっている方々はご存知かと思いますが、わたくしはあの「ハリー・ポッター」シリーズが大好きでございます。それで、ですね。時々思うのですが、ある程度「本好き」を自認しているような人々に向かって「私はハリー・ポッターが好きだ!」って宣言するのって、なんとなーく、すんごい勇気が要ることのような気が、常にしているのですよね。そこはかとなく。卑屈になりすぎ?

特に私は、更新停滞中ではあるものの指輪映画特集ページなんてもんを作っていることからもお分かりいただけるように、指輪物語オタクでもあるので、「指輪に比べれば、ハリポタなんて底が浅いでしょう?」みたいな文脈で話を振られることも、たまにですが、ないではありません。うーん、それぞれ別々に好きなんだけどなあ。比較なんかできないんだけどなあ。

なんかね、ハリポタ好きだって言うと、「所詮、ベストセラーになるような万人受けする "ぬるい" 本を喜ぶのは、普段は本を読まないような人たちでしょ」みたいな、哀れみの視線を感じることがあるのですよ。錯覚かね? 被害妄想かね? ええ、たしかに、そうかもしれませんが。

ちなみに、私がどれくらい「ハリー・ポッター」に入れ込んでいるかというと。たとえば今年の夏に最新刊 "Harry Potter and the Order of the Phoenix" が出たときには、もちろん数ヶ月前から予約して発売日当日にゲット。仕事の合間を縫ってがしがしと読み進め。しかしストーリーが進むにつれ、あまりに気持ちが昂ぶりすぎて、苦痛のあまりページがめくれなくなってきて。それでもやめることができず懸命に読み進めていると、ある時点からはちょくちょく呼吸困難になるほど興奮するようになり、何度か本を置いて外の空気を吸いに出たり、ぐるぐるとその辺を歩き回ったりせねばならず。読了までにかかった数日間のうちには段々と食欲も失せ、佳境に入ってからは当然睡眠時間も削り、最後のほうではいい歳して本を抱えたままボロボロとマジ泣きし(いやー、本を読んで涙が出たのは久々だったよ)。そして読み終わってからは、あまりにも圧倒されて「もう当分、ほかの本は読みたくない……いや、読めない」と呆然とし、現にその後 1 ヶ月ほどは、ほかの本に一応手は着けてみてもハリポタ世界から帰って来れず、最後まで読み通せた本が 1 冊もなかったくらいなんであります。――今この段落を読んだそこのアナタ、ちょっと退きましたね? 私には見えるよ? うん、自分でも、なんでここまで入れ込むかねえ? って思うもん。でも思えば、その前の "Harry Potter and the Goblet of Fire" を読んだ頃から、すでにもうその傾向はあった。

なんでこんなに、入れ込んじゃったんだろう? すごく個人的な心の奥底のなにかをね、現実世界でもしょっちゅうちくちくと刺激されているなにかをね、こう、ざくっと "えぐられる" ようなかんじがするのですよ、ハリポタには。痛いんだが、治療前の虫歯をついつい突付いてしまうようなかんじで、やめられない。たとえば『指輪物語』に対する、一点の曇りもなくぱーっと晴れやかでピュアで穏やかで深々とした愛情なんかとは、全然違うんですわ。

けどさ。なんか時々、「私がこんだけ入れ込んでいるのは、ただ単に、本当はそこに書いてある以上のことを、自分の個人的な事情を反映させて勝手に誤読しているからってだけじゃないのか?」って気がしてくることも事実で。

ハリポタ肯定派の人と喋っていても、「楽しく軽く読めるところがいいよね!」とか言われると「その "軽く読める" 話でメシ食えなくなった私は、どうすりゃいいの?」ってかんじで。うーむ。やっぱり、私だけ、なにかを勝手に読み取ってしまっているのだろうか? 間違った読み方をしているのだろうか?

でもね、もういいんだ。たとえ本当はそこに存在しないものを私が見ているのだとしても、ここまで入れ込めるシリーズ物に出会えたということ、今この時代に生まれて、世界中のハリポタファンと一緒にリアルタイムで新刊を待ちつづけることができるということを、ありがたいと思って生きていくしかないんだ。もう私 "ぬるい" 本読みと呼ばれてもいいよ。本当に深い読書というものをしていないからハリポタごときで感動できるのだ――と立派な読書家の人たちに罵られても、かまわないよ。私は「ハリー・ポッター」が好きだ。

なぜ突然、こういうことを書いているのかというとですね。現在読んでいる途中であるベストセラーぶった斬りレビュー集、斎藤美奈子『趣味は読書。』(平凡社)の終盤において、「ハリー・ポッター」が取り上げられていることに、さっき目次を見ていて気付いたからなのです。まだそこまで読み進んでいないんですが、斎藤美奈子さんのキッパリとした文体でハリポタを貶されたら、私は弱い人間なので、「ああ、やっぱりハリポタが好きなんてことを大っぴらに語るのは頭の弱さを露呈するハズカシイことだったのだ!」といじいじして内にこもってしまいそうで怖かったのです。そしてハズカシイと思って好きだという気持ちを隠してしまうことは、こんなにも私をわくわく、どきどきさせてくれたハリポタに対する裏切りみたいで、なんだかとっても嫌だと思ってしまったのです。

と、いうわけで、今のうちに一度ちゃんとこの愛を大っぴらに表明して撤回できないようにしておこうと思い立った次第。私は「ハリー・ポッター」が好きだ。

(2003.11.4)

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2005年6月12日

『ハウルの動く城』

映画・テレビ

2004年、スタジオ・ジブリ製作のアニメ映画。監督・脚本:宮崎駿。主演(声):倍賞千恵子・木村拓哉。原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いハウルと火の悪魔―ハウルの動く城〈1〉』(徳間書店)。

上映終了間際のゴールデン・ウィーク中に観てきたんですが、なぜか今頃になって感想文です。

行く前に原作本は読んだものの、アニメ版はどこがどう違う、というような予備知識は、ほとんどないままの状態でした。ビジュアルで一番びっくりしたのは、火の悪魔カルシファーかな。かわいすぎる(笑)。

動く城は、すごく面白い造形でしたね。どこがどうなってんだか分からない構造が、きちんとパーツを噛み合わせながらぎーぎーと動いていく冒頭シーン、かっこよかったなあ。原作読んだときには、あそこまで「メカっぽい」ものは想像していなかったんですが。城の上から見下ろす風景のスケール感や、全体にノスタルジックな街並みだって、いかにも「宮崎アニメ」なんだけど、やっぱり好き。

そして、あのハウル!! なんなんですか、あの美青年っぷりは!! 最初に出てきたときには、心の底からびっくりしたよ。宮崎アニメで、あそこまで「あからさま」に美青年なキャラって、初めて見たよ!(造形的には「千と千尋の神隠し」のハクと印象ダブるんですが、ハクは見た目がコドモなのでノーカウントってことで)。なんかもう、笑ってしまうくらい、照れちゃうくらい、美青年演出だったよ。あははは。

あの初登場シーンで、いきなり謎の追っ手はやってくるわ、空中散歩でエスコートされるわのハラハラドキドキ展開。これはもう、「ぎゃー」と叫ぶしかありません。錆びついていたオトメ心を直撃ですよ!

えー、なんなんだろう。なんだかものすごくツボにはまってドキドキしてしまいました。空中を歩くシーンが。

あとさ、あとさ。卵を片手で割るシーン! 男の人がさー、大きな手でパカっと器用に卵割るのって、なんかイイなあと思いませんか。私だけですか。あとで原作読み直したら、原作でもここは片手割りで、卵の数まで原作準拠なんですが、映像で見るとやっぱり素敵。

大体、後半からはヒロインのソフィーが首元までぴっちり覆ったドレス着てるのに、ハウルが襟ぐり広く開いたシャツって……それ絶対に狙ってるって!(←何を?)

そう、ビジュアル的には、絵柄の微妙な古さまで含めて、ハウルすごい素敵なんです。ただ、ストーリー的には、やっぱり原作ハウルが好きだなあ、と思ったことでした。

というか、この映画全体が、原作とは、思いっきり別物かも。

映画パンフにね、児童文学作家の佐藤さとるさんが文章を寄せていて、そこに「非日常の世界には、その特殊な世界のリアリティーを支える、特殊な約束事がある」ということを書いていらっしゃるのです。「作中に使われる魔法で、なにが出来てなにが出来ないか、きっちり決めて厳しく守られなければいけない。そうしないと作品がぐずぐずになり、観客を納得させられない」とか。

もちろん、このあとこの文章は、アニメ版「ハウル」ではそれが出来ている、という方向に進むんだが、個人的にはなんかこの冒頭部分を読んだとき、とっさに「それって、皮肉?」と思ってしまったんだよね。

私としては、「あからさまな説明を省いて観客の想像に委ねた」なんて解釈では納得できないくらい、すっきりしないんですけど。原作での「約束事」がいくつか、アニメ版では存在しないことにされてるのに、その約束事の結果としてもたらされる要素はそのままアニメ内でも使用、みたいなとこがあって。 で、それとは別に、「宮崎アニメ世界でのお約束」はしっかり適用されちゃってるので、なんだかちぐはぐな印象を受けるのではないかなあ。

あと、原作では、一番強烈に心に残るのは、あくまでもヒロインである「ソフィー」の物語なわけですよ。ものすごく乱暴に要約するなら、コンプレックスに捕われてて、積極的に自分の意志で動くことのできなかった女の子が、非日常に投げ込まれて突き抜けちゃって解放されて、ついでに有能でカッコいい(でもちょっとナルシーでヘタレ)な恋人もできました、コレと今後も一緒に暮らすのはなかなか大変そうだけどワタシも強くなっちゃったからオッケー、どんとこい! みたいな。

アニメでは、そこに原作にはない「戦争」という要素を持ち込んだことで、ストーリーの比重がハウル側に動いてしまっているのだ。

ソフィーとハウルの関係性ひとつ取っても、原作では物語のクライマックスへの流れが「ハウルのために単身で敵地に乗り込んだソフィを、ハウルがあとから追いかけてくる」ことで成立するのに対して、アニメ版では「ソフィを守るために出て行ったハウルを、ソフィが追いかけていく」形になってしまっているのですね。

その、私としては、女の子が先に暴走していたほうが、カタルシスあるんですけど。原作者も女性だから、やっぱりそのほうが書いてて楽しかったんじゃないかしらね?

一方、宮崎駿監督は、(63歳の)男の子なので、ハウルが自分から暴走して、女の子にそれをフォローしてもらうという形じゃないと、納得できなかったのかなあ、と。

なんか、原作の本筋は「ソフィーが解放される物語」だったはずが、アニメでは「ハウルが自分の大事なものを守る勇気を持つまでの物語」になっちゃってるというか。どーーーも、カッコよすぎるんですよ、アニメのハウル。ハウルとカルシファーのなれそめ(?)にソフィーの存在を絡ませるアニメ独自設定を入れたことも、ハウルの言動の受け止められ方を変えていると思うし。

原作の、あんまりヒーロー的じゃないようでいて、やることちゃっかりやってる飄々とした狂言回しのようなハウルが、キャラクターとしては好きだわ。というか、実際に一緒に暮らすなら、大変そうだけど原作ハウルがいいわ(笑)。アニメのハウル、本当に本当に素敵なんだけどねえ。

別に、「ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品の映像化」ではなく、「宮崎アニメ」として見ればいいことなんだけど。原作のエッセンスを映像で伝えることを最初からあんまり重視せず、宮崎さんが「自分の表現したいこと」を表現するために原作を素材の一部として利用している、という印象でした。

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2005年6月13日

『ロミオ・マスト・ダイ』を擁護してみる(2002.6.30 初出)

映画・テレビ

Movable Typeに移行する前の過去記事を削除したものの、現行の「虫のいい日々」内の記事からリンクして言及しているものと、映画の感想文については、削除したままだとなんとなく落ち着かないので、とりあえず少しずつサルベージしてこっちに再録してみることにしました。

この感想文を書いたときには、この映画のヒロインを演じるアリーヤちゃんが、2001年に飛行機事故で亡くなっていたことを知りませんでした。すごくカッコよくってかわいくって、これからどんどん活躍しそうなエネルギーを感じたのに。

『ロミオ・マスト・ダイ (Romeo Must Die)』
2000年のアメリカ映画。監督:アンジェイ・バートコウィアク。出演:ジェット・リー、アリーヤ、ラッセル・ウォン、アイザイヤ・ワシントン他。【Amazon.co.jp】


本当は今ではジェット・リーとお呼びすべきなのであろうリー・リンチェイ(李連杰)様が 125通りのコスプレ(え、違うの?)をなさっているらしい最新主演作「ザ・ワン」を観にいきそびれたまま、どうやら各地で上映が終わりつつあるようで。短いなあ、上映期間。いや、もともと普通はこういうものだったか。「ロード・オブ・ザ・リング」がずいぶん長い間上映されてたので、感覚がずれてしまってました。

悔しさのあまり突然ですが、このあいだDVDが1500円になっていたので買ってきた「ロミオ・マスト・ダイ」(2000 年、米)について書いてみることにします。リンチェイ様ハリウッド映画初主演作。見終わった瞬間「ああ、これでは不満を持つ人が多かろう」と感じたのですが、実はけっこう好きだったりするので、勝手に熱く語ってみる次第です。なお、掲題にある「擁護してみる」というのは、作品としてはちょっとなあ、と感じてしまった自分に向かっての擁護であって、この映画になんらかの評価を下している他の方々に反論するものではありません。長文警報発令中。興味のない人は次回更新までごきげんよう。また、一応ストーリーの核心部分は伏せますが、演出方法や本筋とは関係ないちょっとしたエピソードに関する具体的な言及はあるので、そういうのをネタバレと感じる人も読まないほうがいいかと。

*

「ロミオ・マスト・ダイ」。そもそもこれ、宣伝文句にもキャッチコピーにも偽りありなんだよな。もしも今後この映画を観る可能性のある方がいたら、心の平安のためにもDVDのケース等に書いてある惹句はすべて脳内から消すべしと心に留めておいてください。少なくとも「超絶バイオレンス・アクション」というのは、期待しない方向で。

大体さあ、もともとは武道家でいらっしゃるリンチェイ様の格闘シーンを撮るのに、いちいちアングルをめまぐるしく変えたり、動作がはっきり分からないようなアップを多用したりするとは、どういう了見よ? もったいなさすぎ。リンチェイ様の身体の動きやフォームの美しさを堪能できるように、アングルを固定した引き気味のショットがもう少し欲しいところ。「もっと見せて!」と思った瞬間にカメラが切り替わってしまうのだ。あ、リンチェイ様と比べて敵役の決めポーズが決まらなさすぎるので、はっきり構図の分かる撮り方ができないんだな、もしかして。そうかと思えば、ワイヤー・アクションのときだけ妙に間延びしていたりするので、わざとらしいったら。「風雲 ストームライダーズ」のような伝奇モノや、「マトリックス」のような SF モノならいざ知らず、超常現象なしの現代アメリカを舞台にハッキリと「上から吊ってます」と分かる撮り方をしてどうする。いや「風雲…」でもかなり笑っちゃったけど。技術的なことはよく知りませんが、こういうときこそ、アングルをくるくる変えたりしてごまかすべきでは。さらに言えば、いっそ要らんでしょ、ワイヤー……。素人に「なんか違う」と思われてしまう時点で、これがアクション映画としては吸引力のない作品であることは明らかです。

物語は単純。アメリカのとある都市で、中国系の悪いやつらと黒人系の悪いやつらが対立しています。そんななかで、両者のボスの息子がそれぞれ死体で発見されます。当然、両組織の間は一触即発状態に。そして中国系ボスの長男リンチェイ様(元はカタギの警察官だったが父の罪をかばっての服役経験あり)と、偶然知り合いになった黒人系ボスの末っ子アリーヤちゃん(やはり家業を嫌って一人でカタギに生活中の美女)がコンビを組んで、組織の動きとは別に弟ないし兄が殺された事情を独自調査していきます。

つまり、タイトルにもある「ロミオ」と言うのは、『ロミオとジュリエット』を踏まえているわけですね。対立するファミリー同士の息子と娘が――というやつ。しかし。ここでもう一度、DVDのケースを裏返して、あらすじ紹介を確認してみましょう。「そして二人は激しい恋に落ちる」と書いてあります。はいはいはいはい、ここも脳内で削除ね! 落ちてませんから。要するに、この映画はアクションものとしても恋愛ものとしても、かなり盛り上がりに欠ける作品であるということです。

では、一体この映画をどう受け止めればいいのか。これを楽しめるのは、どういう人間であるのか。断言します――これは、「リンチェイ様のはにかんだようなシャイな笑顔に萌え!」な婦女子(私だ、私)のための映画であると。また、十数年前に「少林寺」シリーズなどの中国武術ものでリンチェイ様の存在を知った女子(私だ、私)のなかには「ああ、今回もちゃんと髪の毛がある」というだけで、そこはかとなく安堵する者もいるかもしれません。

やー、もうこの映画のリンチェイ様、相手役のナイスバディな黒人美女アリーヤちゃんがカッコよすぎなので、ひとまわり以上年下の彼女と並んでも、まるでお姉さんについて歩く弟のよう。「アンナ・マデリーナ」において実年齢 8 歳下の金城武に説教され「お母さんみたい」とのたまうアーロン・クォックに負けない可愛さです。どうしてとっさにこういう比喩しか出ないかね私は。

本来、リンチェイ様の魅力というのは、なんだか今ひとつ垢抜けず(ごめん)小柄で顔立ちも柔和なかんじのお兄さん(いや、もうおじさんか)が、いったん戦闘シーンになると突如としてびしっと優雅なほどに所作が決まっちゃって、見るからに強そうな敵をすっきりやっつけちゃったりする、その「意外性」にあると思うのですが、もしかしたら、ハリウッド・スターを見慣れたアメリカ人の目に映るリンチェイ様は、私たち東洋人が見るよりさらに「こんなちっちゃい人が! アクションスターだなんて!」って印象が強いのかもしれません。この映画では、彼の「小柄で柔和」なイメージを、くどいほどに強調する意図が感じられるのです。

ほとんど「片言?」と思ってしまうような、のーんびり、ポツポツとした喋り方とか(実際にも、このときまだ英語はそれほど流暢ではないと思うが)。初めて訪れた街で周囲をもの珍しげに見る、一見無防備なしぐさとか。そしてなんといっても、「素」の表情がそのまま出たような、あのいかにも人畜無害そうな、あどけない笑顔! また、ただ一人の東洋人として黒人たちに囲まれる場面が多いのですが、クールでヒップな体格のよいブラザーたちと並んだリンチェイ様の、なんと外見的にナイーヴ(←ものは言いよう)なこと。ルールも分からぬまま、公園でたわむれにプレイされていたアメフトに誘われ、タックルかけられて目を白黒するところなんてもう。はたまた情報収集のため黒人御用達クラブに客として入場した彼の、なんという「いけてなさ」とリズム感のなさ。見ているこっちが、アリーヤちゃんも含めた周囲の素敵にダンスする登場人物みんなに向かって「やいやいやい、自分のテリトリーでカッコよく振る舞えるのは当たり前なんだよっ! てめーら全員、いっぺんチャイナタウンへ行け! 無様な箸使いなどを晒して気まずい笑いをとってみやがれっ! でなきゃ不公平だろっ!」と叫びたくなるほどです。

でもね、でもね。ずっと見ていると、なんだかクールなお兄さんお姉さんたちの間にあってさえ、その「いけてなさ」やトボけた雰囲気こそが、魅力に思えてくるから不思議。そして製作側の演出意図としても、絶対にそのへんを狙っていると思うのですね。だってさ、クラブシーンで「踊りましょう」と誘われて「やだよー、場違いだよー」と躊躇するリンチェイ様に向かって、アリーヤちゃんてば(たしか字幕には出ませんが)"Cute !" と言い放つんだぜい。そう、この映画におけるリンチェイ様の基本コンセプトは「キュート」、これなのだ!

そんなヒーローを中心に据えてしまった以上、当然艶っぽい場面などは存在しようはずもありません。どこかの海外サイトのレビューで「映画館でポップコーンを分け合うようなデートが似合いのふたり」というふうに皮肉を込めて書かれていましたが、たしかに精一杯好意的に解釈しても、せいぜいそのレベル。普通に見てると単なる友人関係にしか。セクシー美女を前にした30代後半のアクション映画主人公とは思えぬほのぼのさ加減ですリンチェイ様! さまざまな危険をくぐり抜けていくリンチェイ様を見守るアリーヤちゃんの表情は、明らかに「弟の安否を気遣う姉」いや「子供の無事を願うお母さん」。そしていつしか、映画を観ているこっちの目線も、そのアリーヤちゃんにシンクロしてしまうのです。だって可愛いんだもんリンチェイ様! 大詰めの戦いを経てボロボロになって生還したリンチェイ様をアリーヤちゃんが抱きとめる、普通ならロマンス的には一番の盛り上がりシーンとなるべき場面が、「アリーヤちゃんによるリンチェイ様の頭なでなで」で終わるっていうのはどうよ! ハリウッド映画の常識を覆す斬新な演出だとは思いませんか! そしてまた、10以上歳の離れた女の子に頭をなでなでされて「行きましょう」と手を引かれるリンチェイ様、すっごく自然でいいかんじなんですわ!

で、そういうことを考えていると、アクション・シーンの控えめさも、もしかしてある程度、意図的なのでは……と勘繰ってしまうんだな。つまり、最初っから眼光鋭い無敵戦士じゃ駄目なんですよ。「大丈夫かしら、はらはら」とアリーヤちゃん(およびシンクロしている観客の婦女子)の母心を刺激し、そこでリンチェイ様が、見守る側にはなんだかよく分かんないうちに状況を切り抜けて、またにこにこと人畜無害な顔して戻ってくる――というのが、素敵なんですよ。少なくとも、紹介文で誇らしげに言及されていた「X-Ray アクション(敵が致命的なダメージを受ける瞬間が、骨が砕ける CG アニメで表現される)」については、監督が DVD 付録のインタビューで「生々しさを抑えるため」に導入したと語っていました。そう、この映画における「のほほんリンチェイ様」が、殺らなきゃ自分が殺されるとはいえ非情にも他人を攻撃してしまうようなシーンに、生々しい迫真性があってはならないのです。まあ、めちゃくちゃ浮いてるけどな、この部分。それにワイヤー・アクションの演出方法の駄目さについては、やっぱり弁護のしようもない。

さて、この映画でのリンチェイ様は、はたして本当に「ロミオ」だったのか。親の目を盗んで窓からヒロインに会いにくるシーンなんてのも、あるにはあります。また映画タイトルの "Romeo must die " というのは、作中でリンチェイ様に対して投げかけられるセリフで、もちろん対立するファミリーの女の子と仲良くしている状況を踏まえているわけです。ただ実はここ、字幕では「色男は死ね」となっているのですね。なるほど、劇中のすべての色男たちが死んでしまい、いい歳して「にぱっ」とお子ちゃま笑顔で色気などまったく出す気もないリンチェイ様だけが生き残る。これはそういう映画であったのかもしれません。そう思えば看板にも偽りなし。ビバ、キュート!

(2002.6.30)

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2005年6月17日

倉橋由美子さんの小説が好きだった頃

書籍・雑誌

サイトの掲示板およびmixi内で、計3名の方から「倉橋由美子語り」が読みたいというお言葉をいただいたので、ご期待に添えるかどうか分かりませんが、今思うことをちょっくら語ってみますよ。

倉橋由美子さんが今月10日に亡くなっていたというニュース記事で、この方のデビューが私の生まれる10年前であったことを、初めて知りました。1960年。ウォン・カーウァイがらみで前にもちらっと書いたけど、この辺の、自分が生まれる直前の時代って、本当に全然、ピンと来ないのだ。日本国内だと、安保闘争とか、大学紛争とか。倉橋さんの初期の作品は、こういった時代背景があってこその設定を用いたものが多い。

けれども、私が実際に倉橋さんの初期作品群に傾倒していたのは、高校生だった1980年代後半のことでした。あの頃の私って、ああいう描写を、どういうふうに捉えていたんだろうなあ。どこまでどう分かって読んでいたのか、かなり謎。多分、「L」のような記号で示される主人公たちの視点から皮肉っぽく描かれるそれらの左翼系の「運動」と、当時の自分が感じていた、多数派の価値観によって個人的な思いが暴力的に押しつぶされていくんじゃないかというような息苦しさとを、すごく観念的に、一方的に、無意識に、重ね合わせていたのだろうと思います。そういった「息苦しさ」を感じてしまうのって、結局のところは、必要以上に自意識が強いだけだったりして……と、今なら思うけどな。

まあそんな読み方だから、モロに政党(party)を描いたデビュー作『パルタイ』なんてのは、まるっきり意味不明でした。初めて読んだ作品は、たしかキリスト教を槍玉にあげた『城の中の城』だったと思います。旧約聖書にちなんだ名前を付けられ、中学からはミッション・スクールに通っていた私が、常にそこはかとなく覚えていた違和感や、周囲から信仰心を求められることによって「自分」がなくなっていくような重圧感を、言語化するための道しるべをもらったような気がして、非常に爽快でした。決して、「すかっと爽やか」な小説などではないのですけれど。むしろ、世の中から一歩退いて、醒めた目で斜めから見るような筆致。そこがまた、自意識過剰な女子高生には、心地よかったりするのだ。ははは。

で、次にその『城の中の城』でクリスチャンになってしまった夫と思想上の戦いを繰り広げていたヒロイン桂子さんの学生時代の話だという『夢の浮橋』を読みました。これで――やられた。惚れました。本気の本気で、「私が思う“小説”の理想形がここにある!」と思ってしまったのです。小説の構造が、非常に端整で美しかった。きちんと編み上げられた繊細なレースのように。

複雑さ、緻密さ、幻惑性、技巧性、という意味では、そのあと読んだ『聖少女』『暗い旅』のほうが上かもしれないのですが。神経のピリピリととんがった過敏な部分を、ちりちりと刺激してくるような「毒」の強さも。もちろんこの2作品にも、当時の私はすごく惹かれていて、高校在学中、何度も再読しました。

しかしそれでも、『夢の浮橋』のほうに「理想形」を見てしまったのは……なぜだろう。とにかく、構造が、複雑ではないけれども端整だったのです。美しかったのです。それとおそらく、この小説は、ちょっと肩に力入ったような雰囲気の冷たさを持つ初期作品と、肩の力は抜けてるんだけど別の意味でハードなもっとあとの作品とのあいだの、架け橋というか過渡期にあるんだと思う(――と、いうことの裏付けを取りたくて、年代順の作品リストをネット上で探してみたんだけど、うまく発見できません。どなたか、よいページをご存知なら教えてください)。その辺の、敢えてオーソドックスな形にはめた要素と、とんがった要素との、バランスが絶妙に好みだった。

また多分、倉橋さんご自身がそうだったのだと思うのですが、この頃の倉橋作品に出てくるヒロインたちは、基本的にみんな、「お嬢様」です。

『夢の浮橋』のヒロインの桂子さんは私にとって、現実に身近にいたら、絶対にお友達にはなれないタイプ。「格 (class)」というものを強く意識していて、下々の者と交わることがない。大学を出たあとに就職をするなどとは夢にも思わず、親のお墨付きをもらった、自分の親と知的にも経済的にも同クラスの、条件的に恵まれた男性とさっさとお見合いで結婚するような冷静さを持ち、それと同時に、社会的な安定は手放さずに世間一般の俗的モラリティを超越したところで生きていくこともできてしまう女の子です。

学業どころじゃなかったらしい60年代にあって、きちんとお化粧してワンピースを着て卒論(テーマが「ジェーン・オースティン」ってところが、また)を書き上げるために担当教官のところに通っていく桂子さんが、ジーンズ姿で髪を振り乱して学生運動に邁進しているクラスメートの女子に向ける目は、冷ややかで侮蔑に満ちています。こわっ。

でもなんか……そのすっきりと背筋の伸びた、安直に時代や周囲に迎合をしない育ちのよさが、かっこよく思えたんだよなあ。

大人になってから嶽本野ばらの本を初めて読んだとき、心の片隅で、「もし私が15歳のときに、すでに野ばらちゃんがいたら、私は倉橋由美子をあれほどまでには必要としなかったかもしれない」と思ったのでした。それはきっと、嶽本野ばらが「矜持」、「乙女の心意気」などの言葉で表現するハードボイルドな概念と、女子高生だった私が倉橋由美子作品から受け取っていた「class」とか「style」といった概念が、私のなかで、ダブったせいです。美意識、と言い換えてもいい。

いわゆる「ボリューム・ゾーン」に属するという事実そのものによってこちらの精神に暴力的にプレッシャーをかけてくる「野暮で粗野なもの」たちに、迎合したくなければ迎合せずともよいのだと、しかも相手の土俵に降り立って熱血的に戦うことなんてことしなくても、「華麗にスルー」しちゃったり、すべてを俯瞰的に眺めることを目指したりという道だってあるのだと、そう示唆してもらっただけで、あの頃、どこにも身の置きどころがないような気がしていた女子高生の私は、少しだけ呼吸が楽になったような気がしたのだ。

その後、段々と図太くなって、そういうものナシでも呼吸ができるようになっていくにつれ、読まなくなっていったんですけれどもね。「桂子さん」シリーズの続きにしても、子世代の話にあたる『シュンポシオン』くらいまで行くと、読んだのは読んだけど「だから何?」みたいな反応になっちゃったりして。だから、ある時期以降については、私はまったくよい読者ではありませんでした。なんか今度は、どんどん読み手の未熟さを許容しなくなっていく作品世界に息苦しさを感じるようになっちゃって。

いつかまた、私がもうちょっと歳取って精神的な余裕が追いついたら、ふたたび新作を追っかけたりするようになるのかもしれない……と思わぬでもなかったので、60代でお亡くなりになってしまったのはショック。ご病気だったことすら、存じ上げませんでしたから余計に。すう……っとこちらの世界を捨て去ってしまいそうな、名前を持たぬ初期作品のヒロインたちのイメージが強いので、ご本人はスマートに淡々と旅立たれたのだろうと勝手に空想してしまいますが。ご冥福をとかそういう、ごく普通の言葉が、とっさに出て来ないようなかんじ。

もうすぐ出るらしい『星の王子さま』の新訳には期待大。

(なお、持っているはずの文庫本が発掘できないので、小説内容については、全部記憶に頼って書いています。なんか間違った言及があるかもですが、ご容赦ください。)

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2005年6月18日

『花様年華』その1(2002.6.25 初出)

映画・テレビ | 王家衛

Movable Typeに移行する前の過去記事を削除したものの、現行の「虫のいい日々」内の記事からリンクして言及しているものと、映画の感想文については、削除したままだとなんとなく落ち着かないので、とりあえず少しずつサルベージしてこっちに再録してみることにしました。

『花様年華』を初めて観たときには、ウォン・カーウァイ作品で一番好き! と思って、そう書いたんだけど、今はやっぱり、初めてこの監督の存在を知った『恋する惑星』のほうが思い入れ強いです。でも映画としての完成度が高いと思うのは、今でも『花様年華』だなあ。去年「独りウォン・カーウァイ祭り」をやっていたときに、もう一度感想文を書いています。

『花様年華』
2000年の香港映画。原題同じ。英題『In the Mood for Love』。監督ウォン・カーウァイ。主演トニー・レオン&マギー・チャン。【Amazon.co.jp】


仕事のデータ待ちの間にうっかり、週末に買った香港映画「花様年華」の DVDを観てしまったのだ。ほとんど会話だけしかしない、ラブシーン一切なしの、ストイックな恋愛映画。決して若くはなく、しがらみとプライドと配慮を背負った男女の。1回観て、そのあとすぐに、もう1回最初から観た。もう、くらくら。酔いました。すごいよウォン・カーウァイ監督。映画館で観ればよかった。今まで、この人の映画で一番好きなのは同列首位で「楽園の瑕(東邪西毒)」と「恋する惑星(重慶森林)」、ギリギリ次点で「欲望の翼(阿飛正傳)」だったけど、これからはもうぶっちぎりで「花様年華」ですわ。なんか、「ああ、私はウォン・カーウァイのファンだったんだなあ」ということを再認識しましたよ。

「天使の涙(堕落天使)」あたりだと、即興っぽいノリのよさとか、感覚で突っ切ってるようなかんじが面白かったわけだけど(でも根っこの部分にはまだ「欲望の翼」と同じような泥臭さを感じる)、「花様年華」はもう抑制に抑制を重ねて、計算に計算を重ねたような完成度。画面には動きがほとんどないのに、最初から最後まで息を呑んで見入ってしまう緊迫感。特になにをするわけでもないのに、息苦しくなるほどの濃密な空間。1960 年代の香港の、雑然と暮らす庶民の居住地が舞台なのに、一貫して薄暗がりの中にあるシーンの 1 つ 1 つが、最新の注意を払ってデザインされているような美しさ。めいっぱい刈り込んだセリフ。観客に解釈を委ねられた余白。多分、今後この映画を何度観ても、観るごとに私は自分の視点を翻すだろう。私にとってはもう、映画としてほとんど「満点」の作り。主演のふたり(トニー・レオン、マギー・チャン)も、すごいね。マギー・チャンって、あまり好きなタイプの顔じゃないんだけど、この映画では「たたずまい」がものすごく美しい。

なんとなく、「欲望の翼」を喚起される空気感がところどころにあった。色使いのせいか。はるかに洗練されているけど。舞台が同じ 1960 年代の香港だからか。「欲望の翼」の頃から、すでにクリストファー・ドイル(撮影)と組んでたっけ? とにかく、色使いが素晴らしい。音楽もよい。サントラ欲しいなあ。

トニー・レオンの、抑えに抑えたなかからふっと微妙に立ちのぼる、無表情なままでの感情表現みたいなのが、すごくリアルで胸をつかれる。この映画で、2000 年のカンヌ国際映画祭の主演男優賞をもらったらしいけど、なんか納得。西洋人にも通じるよ、この色気は。しかし芸域広いわ、この人。これと同時期に「東京攻略」の撮影もやってたかと思うと……(笑)。そうか、こんなシリアスな役をやりつつ、その合間には妙な日本語を操りながら新宿でスモウ・レスラー(?)相手に瞬間接着剤で戦ってたのね。

「花様年華」は、映画内でラジオから流れてくる歌のタイトルで、中国語では“成熟した女性が輝いている時期”を意味する表現らしいのだが、そんなこと理解できなくても、字面そのものが美しく、想像をかきたてられる。この中国語タイトルのままで日本公開に踏み切った配給会社に、感謝したい。突然ウォン・カーウァイとは関係ない話に飛ぶが、「心動」に「君のいた永遠(とき)」なんて邦題がついたときの脱力感を思い出すと、どうもなんだか。

(2002.6.25)

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2005年6月30日

2005年6月に読んだ本

読了本 | 書籍・雑誌


嶽本野ばら『エミリー』(集英社文庫,2005年/親本2002年)
「レディメイド」、「コルセット」、「エミリー」の3篇を収録。あー、なんつーか、若いうちに「決定的」と思える出会いをしてしまうっていうのは、救いであるのと同時に、けっこう悲劇的なんだよなあ……みたいなことを漠然と思いながら読んでいました。【Amazon.co.jp】

樹川さとみ『それでもあなたに恋をする』(集英社コバルト文庫,2005年)
なんだかものすごく脳内ロマコメ濃度を上げなければ! という気分だったので、妹尾ゆふ子さん折原偲さんの読書blogを拝見して選んでみました。(こういう気分のとき、以前ハーレクインぽいのを試しに読んでみたんだけど、どーーーも駄目なんだよなあ。欧米人とは萌えツボが違うのよ!)紳士な王子さまキャラのヒーローも、たわいない誤解に基づくすれ違いの胸キュン展開もお約束なんだけど、そういうのがちゃんと心地よい、職人芸な少女小説。【Amazon.co.jp】

斎藤美奈子『物は言いよう』(平凡社,2004年)
痛快かつ明解でございます。本音でどう思ってるかまでは問わないから、何がヤバい発言なのかは知っておこうねっていうのは、かなり現実に即した提案ではあるよね。非常に実用的。ただ惜しむらくは、本当にこれ読んで勉強してほしいよなあ、と思うような人たちは、きっと手に取ってもくれないでしょう。【Amazon.co.jp】

酒井順子『ごはんの法則』(幻冬舎文庫,2003年/親本は実業之日本社,2000年)
いやはや、出てくる食べ物、どれもこれも、ちっとも美味しそうじゃないところが素晴らしい(笑)。むしろ、美味なるものの幻想をミもフタもないツッコミの力でちまちまとセコく暴いて地べたに引きずり下ろすかんじ。基本的に、社会現象化してしまった『負け犬の遠吠え』だって、手法は同じなんだよな。あれも本来はこの路線として、該当する人たち同士で密かに「くふくふ」と笑って楽しむ本として書かれたものだったんじゃなかろうか、という思いを新たにしました。題材が題材だっただけに、台風の目になってしまったけど。【Amazon.co.jp】

米原万里『ヒトのオスは飼わないの?』(文春文庫,2005年/親本は講談社,2001年)
にゃんことわんこの話。皆さんキャラ立ってます。ヒトもにゃんこもわんこも。【Amazon.co.jp】


聖悠紀『超人ロック』(1) (2)(ビブロスコミック文庫,1996)
現在は絶版になっているバージョンだと思う。同居人A氏がなぜか突然、古本屋さんで買ってきました。(1) に「サイバー・ジェノサイド」と「ロンウォールの嵐(前編)」、(2) に「ロンウォールの嵐(後編)」と「冬の惑星」。全部、1981年に単行本の出ていたエピソード。中学生の頃、少年画報社版で読みましたよ。大変懐かしゅうございました。好きだったなー、超人ロック。今もまだ続いているのね。1巻【Amazon.co.jp】2巻【Amazon.co.jp】

よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』(2)(新書館,2005)
笑いながら、同人者の生活の基礎知識が学べる、大変ためになる漫画です(ちょっと違う)。やー、独立独歩のオタク男・真島くん最強。いや、すべてのキャラが愛しい。よしながふみは、これ以外では『西洋骨董洋菓子店』と『愛がなくても喰ってゆけます。』しか読んでないんだけど、この独特の間というか空気は好きだなあ。この作者のメインの仕事(本格的ボーイズラブ漫画)に対する受容体を持っていないことが残念、とすら思えてきます。【Amazon.co.jp】

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