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2005年6月17日

倉橋由美子さんの小説が好きだった頃

書籍・雑誌

サイトの掲示板およびmixi内で、計3名の方から「倉橋由美子語り」が読みたいというお言葉をいただいたので、ご期待に添えるかどうか分かりませんが、今思うことをちょっくら語ってみますよ。

倉橋由美子さんが今月10日に亡くなっていたというニュース記事で、この方のデビューが私の生まれる10年前であったことを、初めて知りました。1960年。ウォン・カーウァイがらみで前にもちらっと書いたけど、この辺の、自分が生まれる直前の時代って、本当に全然、ピンと来ないのだ。日本国内だと、安保闘争とか、大学紛争とか。倉橋さんの初期の作品は、こういった時代背景があってこその設定を用いたものが多い。

けれども、私が実際に倉橋さんの初期作品群に傾倒していたのは、高校生だった1980年代後半のことでした。あの頃の私って、ああいう描写を、どういうふうに捉えていたんだろうなあ。どこまでどう分かって読んでいたのか、かなり謎。多分、「L」のような記号で示される主人公たちの視点から皮肉っぽく描かれるそれらの左翼系の「運動」と、当時の自分が感じていた、多数派の価値観によって個人的な思いが暴力的に押しつぶされていくんじゃないかというような息苦しさとを、すごく観念的に、一方的に、無意識に、重ね合わせていたのだろうと思います。そういった「息苦しさ」を感じてしまうのって、結局のところは、必要以上に自意識が強いだけだったりして……と、今なら思うけどな。

まあそんな読み方だから、モロに政党(party)を描いたデビュー作『パルタイ』なんてのは、まるっきり意味不明でした。初めて読んだ作品は、たしかキリスト教を槍玉にあげた『城の中の城』だったと思います。旧約聖書にちなんだ名前を付けられ、中学からはミッション・スクールに通っていた私が、常にそこはかとなく覚えていた違和感や、周囲から信仰心を求められることによって「自分」がなくなっていくような重圧感を、言語化するための道しるべをもらったような気がして、非常に爽快でした。決して、「すかっと爽やか」な小説などではないのですけれど。むしろ、世の中から一歩退いて、醒めた目で斜めから見るような筆致。そこがまた、自意識過剰な女子高生には、心地よかったりするのだ。ははは。

で、次にその『城の中の城』でクリスチャンになってしまった夫と思想上の戦いを繰り広げていたヒロイン桂子さんの学生時代の話だという『夢の浮橋』を読みました。これで――やられた。惚れました。本気の本気で、「私が思う“小説”の理想形がここにある!」と思ってしまったのです。小説の構造が、非常に端整で美しかった。きちんと編み上げられた繊細なレースのように。

複雑さ、緻密さ、幻惑性、技巧性、という意味では、そのあと読んだ『聖少女』『暗い旅』のほうが上かもしれないのですが。神経のピリピリととんがった過敏な部分を、ちりちりと刺激してくるような「毒」の強さも。もちろんこの2作品にも、当時の私はすごく惹かれていて、高校在学中、何度も再読しました。

しかしそれでも、『夢の浮橋』のほうに「理想形」を見てしまったのは……なぜだろう。とにかく、構造が、複雑ではないけれども端整だったのです。美しかったのです。それとおそらく、この小説は、ちょっと肩に力入ったような雰囲気の冷たさを持つ初期作品と、肩の力は抜けてるんだけど別の意味でハードなもっとあとの作品とのあいだの、架け橋というか過渡期にあるんだと思う(――と、いうことの裏付けを取りたくて、年代順の作品リストをネット上で探してみたんだけど、うまく発見できません。どなたか、よいページをご存知なら教えてください)。その辺の、敢えてオーソドックスな形にはめた要素と、とんがった要素との、バランスが絶妙に好みだった。

また多分、倉橋さんご自身がそうだったのだと思うのですが、この頃の倉橋作品に出てくるヒロインたちは、基本的にみんな、「お嬢様」です。

『夢の浮橋』のヒロインの桂子さんは私にとって、現実に身近にいたら、絶対にお友達にはなれないタイプ。「格 (class)」というものを強く意識していて、下々の者と交わることがない。大学を出たあとに就職をするなどとは夢にも思わず、親のお墨付きをもらった、自分の親と知的にも経済的にも同クラスの、条件的に恵まれた男性とさっさとお見合いで結婚するような冷静さを持ち、それと同時に、社会的な安定は手放さずに世間一般の俗的モラリティを超越したところで生きていくこともできてしまう女の子です。

学業どころじゃなかったらしい60年代にあって、きちんとお化粧してワンピースを着て卒論(テーマが「ジェーン・オースティン」ってところが、また)を書き上げるために担当教官のところに通っていく桂子さんが、ジーンズ姿で髪を振り乱して学生運動に邁進しているクラスメートの女子に向ける目は、冷ややかで侮蔑に満ちています。こわっ。

でもなんか……そのすっきりと背筋の伸びた、安直に時代や周囲に迎合をしない育ちのよさが、かっこよく思えたんだよなあ。

大人になってから嶽本野ばらの本を初めて読んだとき、心の片隅で、「もし私が15歳のときに、すでに野ばらちゃんがいたら、私は倉橋由美子をあれほどまでには必要としなかったかもしれない」と思ったのでした。それはきっと、嶽本野ばらが「矜持」、「乙女の心意気」などの言葉で表現するハードボイルドな概念と、女子高生だった私が倉橋由美子作品から受け取っていた「class」とか「style」といった概念が、私のなかで、ダブったせいです。美意識、と言い換えてもいい。

いわゆる「ボリューム・ゾーン」に属するという事実そのものによってこちらの精神に暴力的にプレッシャーをかけてくる「野暮で粗野なもの」たちに、迎合したくなければ迎合せずともよいのだと、しかも相手の土俵に降り立って熱血的に戦うことなんてことしなくても、「華麗にスルー」しちゃったり、すべてを俯瞰的に眺めることを目指したりという道だってあるのだと、そう示唆してもらっただけで、あの頃、どこにも身の置きどころがないような気がしていた女子高生の私は、少しだけ呼吸が楽になったような気がしたのだ。

その後、段々と図太くなって、そういうものナシでも呼吸ができるようになっていくにつれ、読まなくなっていったんですけれどもね。「桂子さん」シリーズの続きにしても、子世代の話にあたる『シュンポシオン』くらいまで行くと、読んだのは読んだけど「だから何?」みたいな反応になっちゃったりして。だから、ある時期以降については、私はまったくよい読者ではありませんでした。なんか今度は、どんどん読み手の未熟さを許容しなくなっていく作品世界に息苦しさを感じるようになっちゃって。

いつかまた、私がもうちょっと歳取って精神的な余裕が追いついたら、ふたたび新作を追っかけたりするようになるのかもしれない……と思わぬでもなかったので、60代でお亡くなりになってしまったのはショック。ご病気だったことすら、存じ上げませんでしたから余計に。すう……っとこちらの世界を捨て去ってしまいそうな、名前を持たぬ初期作品のヒロインたちのイメージが強いので、ご本人はスマートに淡々と旅立たれたのだろうと勝手に空想してしまいますが。ご冥福をとかそういう、ごく普通の言葉が、とっさに出て来ないようなかんじ。

もうすぐ出るらしい『星の王子さま』の新訳には期待大。

(なお、持っているはずの文庫本が発掘できないので、小説内容については、全部記憶に頼って書いています。なんか間違った言及があるかもですが、ご容赦ください。)

Posted at 2005年6月17日 16:32



All texts written by NARANO, Naomi. HOME