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2006年3月 3日

香山リカ『結婚がこわい』

書籍・雑誌

講談社、2005年3月刊。【Amazon.co.jp】

「現代の結婚」の問題を突き詰めて考えてみました、そしたら「親子の問題」や「国策の問題」が浮上してきちゃいました、みたいな本(乱暴すぎる要約ですみません、もっといろいろテーマ別の章に分かれてたんですけど)。

前に読んだ『〈雅子さま〉はあなたと一緒に泣いている』ともかぶる話もちょこちょこあったかな。論点どころかネタまで同じだったり。同じ頃に方向性の似通ったテーマで出版されてるしなあ。きっとこの時期、香山先生にとって強烈なインパクトのあるネタだったんだろう。

正直、10年くらい前の私は、まさか自分が結婚するなんて夢にも思ってなくって、親から強引にお見合い話を持ちこまれたりしてはピキピキするストレスフルな毎日を送っていました。自分が今、(ちょっと世間からは浮きつつも)既婚者のポジションにいるのは、ただひたすらに偶然が重なったせいに違いなく、当時は婚姻届を出すことにも微妙な抵抗があり、今でも時々「嘘みたいだなー」と思ってる。ただ、その一方で、ひとり暮らしをやめてふたり暮し(現在は舅姑と同居なので4人暮らし)になること自体について葛藤はなかったし(それを実現させるための紆余曲折は、前述の婚姻届の提出に対する抵抗感も含めて、いろいろあったけど)、今でもまったく後悔はしていないし、だからここで提示されているような「結婚のこわさ」っていうのは、あるということは理解できるのだが、自分自身では実感していないような気がします。

それはとてもラッキーなことであると同時に、今のこの時代にあって、私のこの能天気なハッピーさは、「こわさ」を敏感に知覚している人たちに対して、ともすればとても鈍感な態度で接してしまったり、あるいは社会がどういう方向に進んでいるのかということに、まったく気付けずにいたりするかもしれない、危うさを孕んだ要素でもある……と思う。

私が定期的に、こういった本に手を伸ばすのは、きっと、そのせいだ。自分のその危うさを、自覚していたいから。

それにしても、この本で描かれる「いまどきの三十代女性の親」像って、うちの親にはほとんど当てはまらないような……。「都会の人たち」をターゲットにした本なのか、それとも全国的に傾向は推移しているのに、うちの周辺だけが、いまだに古臭いのか。

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2006年3月 4日

香山リカ『働く女の胸のウチ』

読了本 | 書籍・雑誌

大和書房、2005年刊。【Amazon.co.jp】

北海道新聞に連載していたコラムをまとめたものだそう。だから、著者本人が「働く女」として日々を送るなかでの“つぶやき”というコンセプトで書かれている1つ1つの文章は、とても短く、「ああ、もっとこのへん、掘り下げて分析してみせてほしいなあ」などと、もどかしく思う部分があちこちにあった。でも、ここでのちょっとしたメモ的な思いつきが、あとからさらに考察されて、もっとボリュームのある別の文章として出てくることも、きっとあるんだろうな。

また、“分析”ではなくあくまでも個人的な“つぶやき”であるがゆえに、香山先生ご本人の切実な気持ちが伝わってきて、ときおり胸を衝かれたりもしていたのだった。

そしてやっぱり、前にも別の著書で同じ感想を抱いたけど、この人が

会社などの職場で働く女たち。子育てや介護など家庭で働く女たち。女たちは、いつでもどこでも働いている。

というような物言いによって、あらゆる立場の人たちを仲間と定義してくれるとき、そして「誰もが一生懸命に生きている」と認めてくれて、職種や実績のいかんにかかわらず、「働くってスバラシイ!」と肯定してくれるとき。

普段「どうせ大した仕事でもないんでしょう?」という視線を意識して居心地の悪い思いをしている私は、ちょっとだけ、救われるような気がするのだ。いや、仕事めんどくさいなとか、こんなのほっぽって遊びに行きたいな(行かないけど)とか思うときも、しょっちゅうあるんですが(笑)。

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2006年3月17日

マクダル パイナップルパン王子

映画・テレビ

2004年公開の香港製アニメ映画。原題『麥兜菠蘿油王子/Mcdull, Prince de la bun』(公式サイト

監督:トー・ユエン(袁建滔)
製作/原作(物語)/脚本:ブライアン・ツェー(謝立文)
原作(絵)/美術:アリス・マク(麥家碧)


香港製のアニメって初めて観ましたが、子ブタの幼稚園児マクダルは今、香港では子どもにもおとなにも大人気のキャラらしいのです。絵本が原作で、テレビアニメになって、今回、初めて日本で公開された本作『パイナップルパン王子』(2001年)は、映画版第1作『麦兜故事/My Life as Mcdull』に続く映画第2弾。

えーと。なぜ、日本での紹介は映画2作目から?

……と、思ってしまったのは、なんだかこれ、どうにもこうにも、「番外編」ぽい雰囲気なんだよなあ。主役のはずのマクダルより、サブタイトルになってる“パイナップルパン王子”のほうが断然、画面に出ている時間が長いんですけど。こういうのって、大前提のお約束として「マクダル」シリーズのレギュラーなキャラや定番パターンを知っている人が、その上で楽しむためのものなのでは。

とはいえ、面白くなかったわけでは決してなく。誰にでもお勧めできる面白さではないにしても。一緒に観た同居人A氏は、ただ一言、「ものすごく香港映画らしい作品だと思った……」と語ったのちは、一切感想を述べませんでした(笑)。

そう、いろんな意味で、とっても「香港」を感じさせてくれる映画ではあった。まず何より、ほわほわした可愛らしいキャラクターたちが動きまわる舞台としては不似合いにも思えるほど、細々と3Dタッチで描き込まれた、背景のあの街並み! ブタやカメや人間が共存する童話風の世界観にもかかわらず、妙に現金でリアリスティックなセリフ群。そのセリフのなかに、ものすごい勢いで挟み込まれる、下町の中華料理メニュー(笑)。一見次々とコテコテのギャグを繰り出すなどサービス精神旺盛なようで、全体としてはなんだか行き当たりばったり風に、整合性など度外視で観客を突き放してくれる、アンバランスな構成。クラシックの名曲にとぼけた歌詞をつけ、時に実写映像までをも織り交ぜた、なんでもアリな「ごった煮」具合。

もうね、アニメだけど、これまで見てきたいろんな香港映画からイメージしていた「香港」が、そのまんま詰まってるってかんじだったのですよ。とにかくまずは、その点が面白かった。香港って、日本のようにアニメーションの手法が確立してなくて、アニメに携わる人の数も少ないらしいんだけど、その分、今はこれまでの実写映画のやりかたを応用しつつ手探り状態でやりたい放題やっちゃってるのかなー、なんてことを、ちょこっと思った。

子ブタのマクダルは、香港の猥雑な街の片隅でお母さんブタのミセス・マクとアパート暮らし。「将来のために」と、のんびりやなマクダルのお尻を叩いてしきりに賢い子にしようとする、教育ママ的な面もあるお母さんだけど、母子で身を寄せ合って、仲むつまじく暮らしています。

旅先でむずかるマクダルにお母さんが話して聞かせたのが、「パイナップルパン王子」の物語。(パイナップルパンというのは、メロンパンそっくりの形状をした、香港ではどこにでもある菓子パンらしいです。以前読んだ『食べ物が語る香港史』(新潮社)でも考察されていたので、「おお、あれか!」と思いました。)

幼いパイナップルパン王子は、あんまり頭も要領もよくなくて、城を離れている隙に王子に成りすました従者タルトに地位を奪われたまま、下町で一般市民に身をやつして大人になってしまいます。そして若い娘ブタと恋に落ちますが、やがて「普通に幸せ」な生活に焦りを感じ、王家の者にふさわしい冒険人生を求めて出奔。

そのいなくなった王子が実はマクダルの父親で、恋人の若い娘さんというのは若き日のワタシ……というのが、シングルマザーであるミセス・マクの主張です。でもそれは果たして、本当なのか嘘なのか。お母さんのお話を聞いた幼いマクダル自身、決してそれを額面どおりに信じているわけではありません。マクダルが生まれる前、実際のところ何があったのかは、おそらく永遠に、ミセス・マクの胸中に仕舞い込まれたままなのでしょう。

ただそれでも、旅先の海を見下ろす草原でパイナップルパン王子のお話をしてくれるお母さん自身の「何か」は、確実にマクダルにも通じているのです。そして、それと同時に、子ども心にも迫り来たのは、圧倒的な「お母さんとぼくは、別のブタ」という実感だったのではないかとも思えるのです。

「パパは“過去”にいた。ママは“未来”にいた。僕だけが“現在(いま)”にいる」……というマクダルのモノローグの、なんと孤独で寂しく、なんとたくましく前向きなこと。ちょこなんとたたずむ、いたいけな子ブタ(しかも幼稚園児)のくせに。そう、たとえ大好きなママとでさえ、共有できない世界はあるのです。自分の「いま」を生きることができるのは、自分しかいないのです。うーん、シビアだなあ。香港の子どもは、こんなの観てるのか。

なんかなー、個人的な経験がよみがえってしまって、けっこうずずーんと来ましたわ、これ。私も、父親が仕事の関係で日本にいないことが多かったので、生まれてから母親が死ぬまでのあいだは、かなり母子密着型の親子やってましたからな。幼い時期の、母親との二人旅、その旅先で普段は厳しい母親が見せる、いつもとちょっと違う顔……っていうのが、今、思い返すとなー。終盤、誰もいない草原で、マクダルとママが二人っきりでダンスするシーンで、なんかわーーーっと涙が。別に全然、「泣かせ」の演出をしたシーンじゃないんですけど。

ああ、アレですよ。『ブエノスアイレス (春光乍洩 Happy Together)』の、故レスリー・チャンとトニー・レオンがキッチンで踊るシーンみたいに。あまりにも曇りなくハッピーなシーンは、どこか哀しくて寂しい。いやその、マクダル可愛いし、お気楽に鑑賞すればいいんだと思うんですけどね。

それにしてもやっぱり、このいきなり2作目からの日本公開っていうのは、ちょっとムリがあったのではないかなあ。私は、映画を観る前に『春田花花幼稚園 マクダルとマクマグ』(原作絵本シリーズからいくつかエピソードを選んで翻訳したらしいもの)を読んでたので、ある程度は馴染みのある世界だったけど、いきなり観た人はどうだったんだろう。上映前に第1作『My Life as Mcdull』(邦題は仮題で『マクダルの話』)の予告編も流れたので、そのうちこちらの公開もあると思われ。早くしてね。

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2006年3月21日

SPIRIT

映画・テレビ

2006年の香港・アメリカ映画(公式サイト)。原題『霍元甲/Fearless』 (オリジナルの英語タイトルと違う英語を邦題にするの、正直やめてほしいんだよなー。『Cradle 2 the Grave』→『ブラック・ダイヤモンド』とか。今はともかく、数年後に思い返したときに混乱すること請け合い。)

監督:于仁泰(ロニー・ユー)
出演:李連杰(ジェット・リー/リー・リンチェイ)、中村獅童、孫儷(スン・リー)、鄒兆龍(コリン・チョウ)、董勇(ドン・ヨン)他

初日(3/18)に観てきましたよ。本当に久々に、迷いなく「リンチェイさま!」とお呼びしたくなるような映画でございまいした。役柄的にも師父だし(そういう問題?)。

実在した武術家、霍元甲(フォ・ユァンジア)を主人公に、しかしストーリーにはかなりのフィクションを加えて作り上げた脚本。そのフィクション部分については、霍元甲の遺族からクレームがついたりもしているらしいですが。

これまでずっと、武術家でありながら(いや、武術家であるからこそ)「暴力によって問題が解決してしまうような作品は嫌だ」と言いつづけ、ハリウッド・スターでありながら「報復」という考え方を否定する、9.11事件以降のアメリカ世論に逆行する発言をしていたリンチェイさまにふさわしい内容の、すーーーーんごく、分かりやすいお話。でも、リンチェイさまには、変にリアルに複雑だったり微妙だったり芸術的に難解だったりする斜にかまえた作品より、こういう「ベタ」なのが似合うと思うの。言ってみれば、ご本人の存在そのものがベタなんですもの(笑)。

リンチェイさまとしては、これを中国武術をメインに据えた作品としては最後のものにするおつもりなのだそうですが、主人公が他人を倒す強さに捕われ驕りたかぶった時代を経てどん底に突き落とされたあげく、「武術の精神にのっとった真の強さとは何か」ということについてストレートに悟りを開いてしまうこの作品でおしまいにするなら、ファンも納得の美しい締めくくりと言えるのではないでしょうか。(ちなみに次の作品、2007年公開予定の『Rogue』は久々に純粋なハリウッドもの? FBIを敵に回す暗殺者役だってー。中国武術ではなくてもアクションはありそうですね。)

日本でのマーケティングをも考慮しているんだろうと言ってしまえばミもフタもないけど、日本人に殺されたというのが(事実ではないにせよ)お約束になってる歴史上の人物を主役とした、中国民族の誇りを謳いあげる映画でありつつも、日本側にも高潔なキャラクターを配置して一般化を回避しているので、観ていて居心地悪くもならない。出番が比較的少ないわりには、非常においしいとこ持っていったよなー中村獅童。

「リンチェイさまの全開笑顔に萌え」な婦女子(私だ、私)向けには、幼い愛娘(のちに殺されちゃうんだけどね……)にでれでれするシーンもありますよ!

さて、日本でのマーケティングと言えば。この映画、日本公開バージョンだけ、エンドロールで流れる主題歌が差し替えられています。これについては、別項で。

とりあえず、「くのいちブログ」の管理人さまが提供してくださっているこのバナーを貼っておきます。

SPIRIT:ジェイ・チョウの主題歌が聴きたかった。

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2006年3月24日

映画『SPIRIT』主題歌差し替えの件

映画・テレビ | 音楽

いやはや、前回、映画そのものの感想で更新したときには、すぐに続きを書くようなことを言っておいて、やっぱり数日が経ってしまいましたが、表題の件。映画『SPIRIT』の主題歌が、日本公開バージョンだけオリジナル版とは異なっているというお話です。よそさまからいただいたアピール用のバナーも、もう一度貼っておきます。

SPIRIT:ジェイ・チョウの主題歌が聴きたかった。
(リンク先:周杰倫に仕える「くのいちブログ」

こういうのも。

SPIRITの魂はジェイ・チョウの霍元甲にある。
(リンク先:SPIRITの魂はジェイ・チョウの霍元甲にある。


ほうぼうの中華系映画サイトではかなり前から話題になっているのですが、うちを読んでくれてる方々はほとんどがご存知ないのではと思うので、一応説明すると、もともとのバージョンで使われていた主題歌は、主人公の名前を取った映画(原題)と同タイトルの「霍元甲(フォ・ユァンジア)」

上のバナーおよびリンク先ブログにも書かれているとおり、中華ポップス界のトップスターであり、前々から李連杰(ジェット・リー/リー・リンチェイ)の大ファンだと公言もしていた、台湾の周杰倫(ジェイ・チョウ)が、本作の主演俳優であるリンチェイ本人から、若い人たちにも関心を持ってほしい映画だからぜひジェイに、と直接指名を受け、張り切って映画のために新たに書き下ろした曲です。

ところが。公開間近になって流れた情報によれば、日本国内ではエンドロールで流れる曲が、日本の比較的新しいバンドが提供する、まるっきり印象の異なったメロウな日本語の女性ヴォーカル曲(しかも恋愛系の歌詞??)になるというではありませんか。別に映画のために書かれたものでもなんでもありません。ちょうど同時期に発売が予定されていたアルバムから持ってきた、既存の一曲。

てっきり、「主題歌も要チェック! 中華圏では老若男女だれでも知ってる大スター、ジェイ・チョウの書き下ろし曲! 主演のジェット・リーも映画にぴったりと大絶賛!」という方向でのプロモーションになるもんだとばかり思っていたのになあ。びっくり。

この「日本版テーマソング決定!」のニュースを知ったとき、私はものすごーくモヤモヤとした、嫌な気持ちになりました。いったい、一般の観客の目に見えないところで、どんなやりとりがあったのか。わざわざ日本でだけ、ラストに流れる音楽を映画と本来無関係な、まったく曲調の違うものに差し替えて、鑑賞後の余韻をオリジナル版とは変えてしまうことのメリットって、なんなのか。そして、それはだれにとってのメリットなのか。

たしかに、ジェイ・チョウは日本ではまだまだ知名度が低いかもしれません。義務教育を受けていれば少なくとも断片的には誰でも聞き取れる英語の洋楽などと違って、北京語で脚韻を踏んだ歌詞は、多くの日本人の耳には馴染まないかもしれません。でも、日本人や欧米人の登場人物もいるにせよ、基本的に中国を舞台として中国語のセリフで話が進む中国武術の映画なんだから、テーマソングもその延長線の中国語でいいじゃん! 駄目なの!? 映画を隅々まで堪能しにきたリンチェイのファンに、どうして最後の最後で、リンチェイ大プッシュの曲を聴かせてくれないの!?

それでも、ニュースを聞いただけの段階ではいやいや、実際に自分の目で映画のラストシーンを観たあとに日本バージョンの曲を聴いたら、「あ、意外といい流れじゃん? 映画に似合ってるじゃん?」って感想になる可能性もあるし……と、態度を保留していたですよ。

で、観てきたわけですが。うーーーーん。

この手のイマドキな音楽に造詣の深くない私が言っても説得力ないかとは思うけど、やっぱり、あんまり合わないと思うよこれ……。曲自体はおそらく、この手の音楽が好きな方にとっては、よいものなのでしょうけれど(と、分かんないのでそういうことにしておく)、この映画のエンドロールで聴くと、違和感があるよ。なぜこれを選んだのか、と思ってしまうよ。

それに改めて考えるに、たとえ差し替え後の曲がそんなに浮いてなかったとしたって、「最初から思い入れたっぷりで映画のためだけに書かれた曲」と、「ほかから持ってきた、あとづけの“ありもの”の曲」だったら、前者が尊重されてしかるべきではないかと、強く強く思うよ。

オリジナル版と違う、日本で売り出し中のバンドの曲が国内バージョンにのみ別途つくことによって、マーケット全体で動くお金は大きくなるのかもしれないけど……なんか、「日本の観客、舐められてるのでは」と哀しくなってしまうのです。テーマソングなんて、実はテーマを意識して作られたものじゃなくたって流行りっぽいカッコよさげなものを流しておけば誰も文句なんか言わないさ……って、配給側にたかを括られてるような気がしてきちゃうのです。日本の観客って、そこまで無頓着で鈍感ですか?

この映画に限らず、最近は、日本でだけ違う音楽がつく映画ってけっこう多いので(私はよく知らないのですが、ちょくちょくあるらしいですね?)、いまさら騒ぐことでもない、という考え方もあるのかもしれません。でもむしろ、本当によくあるケースなのだったら、この映画の場合にかぎらず、こういうことを積極的に問題視する人がいてもいいんじゃない? この映画の場合にかぎらず、どんな映画も、音楽までをひっくるめて「完成したひとつの作品」だと思いたいよ、私は。海外で同じ映画を観た人とも、同じメロディを味わい、同じ印象を共有したいよ、私は。その選択肢を最初から剥奪されていることを、悔しいと言ってはいけないの? 国内で公開されただけでありがたい? 日本の観客って、そこまで鷹揚でいなくちゃいませんか?

そりゃ外国語の場合は歌詞理解の問題もあるから(歌詞にも字幕をつけるという方法はあるにせよ)、まったく同じように受け止めることは不可能かもしれないけどさ。異なる文化圏の音楽だったら、日本人の耳には違和感のあるメロディラインだってあるかもしれないけどさ。でも、“外国の映画”って、そういう「ちと感覚が違うかも」ってとこまで込みで、受け止めて、それに応じた感想を抱くものじゃないの? そんなこと言うのはマニアックなファンだけで、一般の人たちには拒否される? 本当に? 日本の観客って、そこまで新奇なもの嫌いで狭量なのですか?

「まぼろし」になってしまったオリジナル・バージョンの主題歌、ジェイ・チョウの「霍元甲」は、映画の香港側オフィシャル・サイト内の主題歌PVページで聴けます。

個人的には、ちゃんと主演俳優からの「若い人向け」という要請に応えている洗練された仕上がりでありつつ、映画に似つかわしい力強さやレトロな中華テイストも盛り込まれ、クラシックから音楽の世界に入ったジェイらしい美意識をもってきっちり作られた、なかなか気持ちいい曲だと感じました。特にジェイのファンってわけではない私でも、初めて試聴したときには「おお、かっこいいじゃん! リンチェイに似合ってるじゃん! さすがリンチェイのファン! 職人芸!」と思って、これを映画館で聴ける日を楽しみにしていたのだけれどなあ。(職人芸っていうと語弊があるかもしれないけど、ワタシ的にはなんかジェイ・チョウって、「いつも如才なく狙ったところをはずさない計算された曲作りをする人」というイメージなんですよね。聴き込んでるファンの人たちがどう捉えているかは知らんけど。)

そしてまた、たとえオリジナル主題歌が、自分にとって心地よいと感じない楽曲であったとしても、上に書いたように「映画のために作られた曲を却下してまったく関係ない曲を持ってくるのはなんか違う!」という、私の意見は変わらないと思います。

とりあえず、この「霍元甲」のMVを去年出たジェイのアルバム「11月的蕭邦(11月のショパン)」からの曲のMVと一緒に収録したDVDが日本でも来月リリースされるらしいので、買うつもり(私はAmazonで予約しましたが、商品情報はHMVのほうが詳しい)。“日本で”1枚でも多く売れることに意義があると思うので、あえて日本盤を待っています。熱心なジェイのファンなら、とっくに発売されている輸入盤のDVD付きシングルCDと両方買うんだろうけどさ(笑)。

それでもって、私が今ここに書いてることなんて、すでにあちこちでもっと的確に語り尽くされていることなんですが、たとえこんな辺境サイトでも、ネット上に表明される意見の“数”が1つでも増えることは、まったく無意味ではないような気がするので、やっぱりアップしておくことにしました。ここまで読んでくれてありがとう。

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2006年3月29日

Nostradamus

ビールラベル

nostradamus.jpg

ベルギーのカラコル醸造所製。同じ醸造所のアンブレザクソーよりちょっと濃厚なかんじがしましたが、こういうのは体調にもよるからなー(最近、自分の舌に自信なし)。アルコール度数は9%。

ラベルはパッと見、夜空に浮かんだ書物の上で望遠鏡をかまえる普通の小人さんのイラストに思えたのだけれど、よく見るとやっぱり「カラコル(カタツムリ)」の殻を背負ってました。しかしこの小人さんのどこが「ノストラダムス」? いや、かわいいから別にいいんです。

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Gulden Draak

ビールラベル

gulden.jpg

赤っぽい茶色が美しいベルギービール。アルコール度数10.5%。“重くて甘い”印象。

ベルギー語が分からなくても一目でゴールデン・ドラゴン、黄金の竜なのだなと理解できちゃうラベル。瓶の本体は真っ白に塗られています。Van Steenberge醸造所より。

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Ebulum Elderberry Black Ale

ビールラベル

elderberry.jpg

作ったのはスコットランドのHeather Ale Ltd.、またの名をCraigmill醸造所。

いかにも「ケルト!」なデザインのラベルに惹かれて予備知識なしで購入。エルダーベリー(ニワトコの実)と一緒に発酵させているのが特徴だそうですが、どの辺がエルダーなんだかよく分かりませんでした。ふつーに美味しい黒ビールかと。アルコール度数6.5%。

それにしてもしかし、誰も期待してないとは思うけど、ほんとに誰の役にも立たないビール紹介だな。いや、あくまでも「ビールラベル」紹介コーナーだから、別にいいのか(そのわりには写真もいいかげん)。

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2006年3月31日

ナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女

映画・テレビ

2005年のアメリカ映画(公式サイト)。原題「The Chronicles of Narnia - The Lion, the Witch and the Wardrobe」。

監督:アンドリュー・アダムソン
出演:ウィリアム・モーズリー(ピーター)、アナ・ポップルウェル(スーザン)、スキャンダー・ケインズ(エドマンド)、ジョージー・ヘンリー(ルーシー)、ティルダ・スウィントン(魔女)、リーアム・ニーソン(声:アスラン)、ジェームズ・マカヴォイ(タムナス)他


(すみません、完全に「原作を読んだ人」向けの感想文になっちゃってるかも。)


C. S. ルイスによる別世界ファンタジーの古典「ナルニア」シリーズの第1巻『ライオンと魔女』がディズニーによって映画化されると聞いたときには、正直「げっ、ディズニーっすか?」という気持ちでした。

とはいえ、その後の報道で、舞台設定はイギリスのまま(ナルニア部分のロケ地はニュージーランドだけど)、俳優もイギリス人を使う、象徴的に登場する宗教思想に基づいた要素も排除せず原作のストーリーを尊重する、と言っているのを見て、ちょっぴり安心してみたり。しかしながら、製作途中のメイキング動画をネットで見て、「なんか戦闘シーン用の小道具とかが微妙に指輪っぽい雰囲気……あらら、やっぱりWETAのリチャード・テイラーさんが出てきたよ」とまたまたそこはかとなく不安になってみたり。

というか、『カスピアン王子のつのぶえ』や『さいごの戦い』ならいざ知らず、『ライオンと魔女』における“軍 vs 軍”の戦闘描写って私、実はあんまり強く意識してなかったのですね。私にとって、あの物語における戦争って、「そういえばそんなシーンもあったか」的なものでしかなくて。なので、トレイラーを見ても「へ? そこをそんなに大規模な迫力満点の大戦争にしちゃうんですか? そこを映画のハイライトにしちゃうんですか? アスランの“契約”が成就したシーンじゃなくて?」みたいな。

そしてさらに。ナルニアでない、“こちら側の世界”における戦争もまた、最初に読んだときの私の意識の中では、とても希薄でした。大人になってから再読してみて、ようやく「あ、そういえば主人公たちが物語の序盤で田舎のお屋敷に滞在していたのは、戦禍を逃れるための疎開だったのか!」と改めてハッと気付いたくらい、子供の頃はその辺をのほほーんと読み逃していました。

しかし映画バージョンでは、この“戦争”の気配が、かなり濃厚です。そもそも最初のシーンが、「え、これってナルニアの映画だったよね?」と半券を確認したくなるような、ロンドンを空爆するドイツ軍飛行機のシーン。ナルニアに行ってからも、この国を100年にわたる長い冬から解放するために戦うべしという話になると、「戦争を逃れて疎開したのに、また戦争に巻き込まるなんて……」というようなセリフが出てきます。私たちがいる“こちら側”の描写に、より力が入っているし、2つの世界の関係がアナロジカルな面でより密接につながっているというか。その分、本で読んでいたときの、ぐぐっと入り込んで現実世界の存在を忘れるようなかんじはちょっと薄いかも。

主人公たちの母親など、ちらりとも登場せず、私たちがいる側の世界の描写が最低限に抑えられている原作では、主役の子供たちの意識の中でも、完全に「自分たちが生まれ育った世界<ナルニア」になっちゃってるから、一件落着後も元の世界に戻ることなく、そのままそこで一度、大人になっちゃうほどの長い年月を過ごしてしまうというのをわりとすんなり受け入れられるんだけど、あれだけお母さんや(写真だけでの登場とはいえ)お父さんの存在をきっちり描かれると、原作知ってても「ええー? たまたまきっかけがあって思い出さなかったら、そのまま二度と親の顔を見ることもなくナルニアに骨を埋めちゃう気だったんですか?」と(笑)。

こちら側にもあちら側にも戦争が……というのを強調するような構成については、これも“アリ”な解釈だな、とも思って納得はしました。むしろ、なかなか悪くない、純粋に面白いと思った。こうやって分析的に鑑賞している時点ですでに、“入りこんでない”ってことではあるんだけど(『ロード・オブ・ザ・リング』第1作のときは、画面にぱーっとホビット庄の風景が広がってタイトルロゴが出た瞬間に、無条件で何も考えられずじわわわーんと涙が出てきちゃったんだけど、そういうのと比べると、かなり醒めてた)。

観おわったあとでパンフを読むと、監督インタビューで


――子どもの頃、原作を読んで抱いたイメージを、今回の映画にも採り入れたそうですね。
「実際に読み返すと、ほのめかす程度にしか書かれていないんだけど、激しい戦いの場面が印象に残っていた。(後略)」


といったやりとりがあり、やっぱりなーと思いました。たまたま、私は「激しい戦いの場面」にはさほど感銘を受けなかったけれど(「ほのめかし」に鈍感だった?)、監督にしてみれば、自分が原作から受け取ったものを展開させて掘り下げていくと、ああいう形になるのね。だったら観客としては、それを受け入れるだけですよ、うん。

しかしそれにしても、実は映画を観ながら、「どうせ戦いのパートを気合入れて描くなら、あれとかあれはぜひ見たかったけどなあ」と思ってた要素が、あとで確認したら、ことごとく『ライオンと魔女』以外のナルニア物語(『カスピアン王子のつのぶえ』など)に出てくるエピソードでした。ほんっっとに、まっったく、私にとっては『ライオンと魔女』の中の戦いのシーンって印象薄かったのね……。ということは、私としては、これから出てくる続編映画のほうがもっと楽しめそうってことかしら♪

映画ですごく好きだったのは、子役たち4人がどこまでも「普通の子」だったことと、彼らのきょうだいとしての関係がさりげなくも細やかに描かれていたことです。それぞれの性格の違いも、分かりやすく描写されてました。最年長者としての責任を感じつつも時に空回りしたり迷いがあったり、でもなかなか健気で真面目なお兄ちゃんではあるピーター。お姉さん風を吹かせて現実主義なんだけど、どこかモロいところがありそうなスーザン。繊細であるがゆえに周囲に反抗的でドツボにはまってしまうエドマンド。そして末っ子ルーシーね。原作イメージより幼くてあどけない部分が強調されてるような気がしたけど、かわいかった。話が進むうちにピーターの顔つきが段々としっかりしてくるのが、よかったなー。原作を読んでたときには、実はピーターって4人のなかで一番、面白味のない子のように思っていたのだけれど、映画でルーシーとのやりとりなどを観ていたら、妙に感情移入してしまった。

全体的には、まあなんというか、「動く挿絵」ってかんじで楽しく見てました。私が子供だった頃、「ナルニア」シリーズを読んでいて一番、心に強烈なインパクトを残したのは、あえて言葉にするなら、“至高体験への志向性”のようなものだったのですね。「アスラン」という名前が口に出されただけで湧き起こる、くらくらとお酒に酔うような(当時はお酒なんてもちろん飲んだことないですけど)気持ち。アスランが待ち受ける世界の果てに向かって船を進めるうちに、光や水だけでこれ以上は何も要らないという満たされた気持ちになっていく至福感。そういったものの強烈な追体験は、やはり本を読んだあの頃の私の、ごくごく個人的なものでしかないので、映像には求めません。

ああ、それと、エンドロールで美術スタッフの偉い人として、『指輪物語』の挿絵で有名なアラン・リーの名前があったことに大ウケ。「キングコング」にも参加してたよね? 「ロード・オブ・ザ・リング」の1作目が公開される前のインタビューでたしか、「数週間の滞在ということでニュージーランドに呼ばれたのに、もうかれこれ……」云々って言ってませんでしたか。結局、「指輪」映画の仕事が終わったあともおんなじようなことやってるのね。これでもう何年、ニュージーランドにいるんでしょうかこのお方。映画作りにハマッちゃった?

追記(4/1):
RINさんの「凛大姐&小姐的極楽日記!」を拝見していたら、もう1つ書いておきたいことがあったのを思い出しました。

一昨年だったかに私、まだ撮影が開始してない段階のナルニア映画取材番組の動画をネット上で見たことがあったんですよ。その中で、映画のために赤ちゃん時代から訓練されているという、ちっちゃな仔オオカミたちが紹介されていてね。

もうもうもう、「こんなに人なつっこくてあどけないオオカミちゃんたち、将来ほんとに悪役演技なんてできるの!?」と心配になっちゃうくらい、可愛かったです。

だもんで、完成した映画で悪い魔女の手下をやってるオオカミさんたちに再会したときには、「まあまあまあ、すっかり大きくなっちゃってー。まあまあまあ、立派に演技もできるようになったのねー」と、めいっぱい親戚のおばちゃんモードに。スクリーンの中で何をやられても、「ああ、健気にお仕事している……(ほろり)」としか思えません。よくがんばりました! 偉かったぞ!

でもお子さまがたには、あんな健気なコたちでも、やっぱり怖かったんだろうな。彼らの仔オオカミ時代を見ていない同居人A氏38歳も、私の隣の席で、ちょっぴりびびっていたぞ。まあつまり、あのコたちに演技力があったということですよ、うん(親戚のおばちゃんによる贔屓目?)。

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主題歌差し替え問題・その後

映画・テレビ | 音楽

先日から当blogでもあれこれ言ってる、映画「SPIRIT」の主題歌差し替え問題ですが、リンクさせていただいている「SPIRITの魂はジェイ・チョウの霍元甲にある」blogで、進展があったことを知ったので、ちょこっと感想。

映画の配給元ワーナー・ブラザーズのサイトにある、ワーナー・ブラザーズ映画 宣伝マン日記によると、夏に出るDVDとビデオには、劇場公開版ではなくジェイ・チョウの主題歌が入ったバージョンが収録されると決定したようです。やっぱ、ネットでみんなが騒いだ(3/31現在Googleで「SPIRIT 主題歌 ジェイ・チョウ」を検索すると、44,100 件ヒットだよん)おかげもあるかな? やっぱ、騒いでみてよかった? 最初から劇場で大きなスクリーンを前にオリジナルの主題歌を聴けたら、もっと嬉しかったですけどね。

それにしても、差し替えバージョンのほうの、後付けの日本語テーマソングを歌った日本のバンドの若者の皆さんも、こうなってくるとちょっと気の毒だな、と思ってみたり。この方たちには、別に恨みはないし。彼らにしてみれば、本来は自分たちのアルバムのためだけに作った既存の曲をいきなり「これから公開する映画の主題歌として使いたい」なんて依頼されて、快く許可を出したにもかかわらず、結局いまいちお客さんの反応がよくなかったと言って、DVD化の段階でさくっと「なかったこと」にされちゃうわけでしょう。「SPIRIT」の日本用テーマソングとして使われたおかげで、かえってマイナスのイメージがついちゃったとも考えられる。まんまと乗せられて振り回されたとも言えるわけだよね。合掌。

そして、DVDにジェイ・チョウ主題歌バージョンが入ると知って、素直に喜んではいるし感謝もしてはいるものの、その一方でどーーーもやっぱりすっきりしない気持ちも残っているのは、件のワーナーblog(宣伝マン日記)における


ジェイ・チョウの楽曲は、もともと東南アジア以外の国では使用できない契約に
なっているため日本では日本のアーティストの楽曲を使用することになりました。
いろいろと憶測が飛び交っておりましたが、あくまでも契約上の問題であることを
改めてご理解ください。


という物言いのせいかもなあ。もともと使用できないことになってたのなら、2月の時点で、ジェイ・チョウを自ら指名した主演俳優が、ジェイの来日コンサートに寄せて日本のファン向けに熱いビデオ・メッセージを送って期待を高めてくれていたというのは、いったいなんだったのか……なんてことはもう、いまさら言いませんが(←言うてるがな)。

DVD化にあたって新たに契約を交わしたらジェイ・チョウの曲を使えるようになったということは、最初の時点でだって、何がなんでもどうしてもジェイの曲は使えない状況だったんです、というわけじゃなさそうだよね? つまるところは、最初の時点では、ワーナー側の判断として「楽曲使用契約の必要ナシ! 別の曲でGO!」だったというのは事実なんだよね?

要するに、配給会社にもともと「映画のテーマに沿って作られた、作品と一体化した楽曲であっても、外部状況に応じて容赦なくカットすることに抵抗なし」という姿勢があったということには、変わりないよね? だとしたら、同じようなことは、これからもどんどん起こってしまう可能性が大きいんじゃないだろうか?

今回、ネット上でたくさんの声が集まったのは、やっぱり「ジェイ・チョウとリー・リンチェイ(ジェット・リー)」という比較的メジャーな組み合わせだったからだと思うんだよね。2月にジェイの初来日コンサートがあったばかりで、そこでアルバム未収録の映画主題歌「霍元甲」が新曲として披露され、ファンの気持ちが盛り上がりまくっていたのも追い風になったはず。(参考:HMVオンラインショップ内の2006年2月6日付記事「ライヴ後ジェイ『霍元甲』に受注殺到!」

もっとマイナーな映画で、マイナーな歌手だったら、いくら少数のファンが頑張っても、配給会社に「世間で騒ぎが起こっている」と認識させてリアクション(たとえそれが「いろいろと憶測が飛び交って」というような表現であったとしても)を引き出すところまでは、いかなかったんじゃないだろうかと思えてならない。

一般の観客が動向をチェックしていちいち働きかけをしたりせずとも、「音楽だって、映画作品の一部なんだ!」、「音楽が変わってしまったら、映画作品そのものもある程度、変質してしまうんだ!」という認識が、今後の日本の映画業界のデフォルトになることを、強く強く、願っています。

*

以下、蛇足。

すごーく個人的な趣味に基づいた発言をさせていただくとですね、日本での公開が今のところ未定の「情義我心知/Moonlight in Tokyo」という、公式サイトを見ただけで(とりわけ日本人が見た場合は)クラクラしちゃうほどお馬鹿っぽいのではないかと推測される香港コメディ映画がありましてね。これの主題歌を歌っているシンガーソングライターの光良(クアンリャン/マイケル・ウォン)が最近かなり好きだったりするので、日本公開時に差し替えられたら泣いちゃうなー、と懸念しているのですよ(いや、そもそも日本公開があるのかどうかも疑わしい映画なのだが)。ジェイ・チョウよりもずっとずっと日本での知名度の低い光良なので、もし配給会社の判断で差し替えられたら、もう絶対にくつがえされない気がする……。

ちなみに上述の「情義我心知」、主演はレオン・ライ&チャップマン・トゥ、監督・脚本は「インファナル・アフェア」のアラン・マクとフェリックス・チョン、プロデューサーも「インファナル・アフェア」のアンドリュー・ラウ……というなかなかの豪華メンツではあるので、映画の中身にも実はけっこう期待しています。ああでも、こういうマニアックっぽい映画だと、公開するにしてもひっそり単館上映とかになりそう? 音楽会社とタイアップしてテーマソングの差し替えをやるほど機動力(?)のある大手の配給会社は見向きもしないって可能性のほうが高いかも(それはそれで……苦笑)。

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All texts written by NARANO, Naomi.