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2006年4月18日

桜庭一樹『荒野の恋』(第1部・第2部)

読了本 | 書籍・雑誌

『荒野の恋 第一部 catch the tail』エンターブレイン ファミ通文庫,2005年6月刊。【Amazon.co.jp】

『荒野の恋 第二部 bump of love』エンターブレイン ファミ通文庫,2006年2月刊。【Amazon.co.jp】

ちょっと前に同じ作者さんの『GOSICK』(富士見ミステリー文庫)を読み始めたのですが、ストーリーには大変心を惹かれるものがありつつ、1924年のヨーロッパという設定でライトノベルの言葉遣いというのがどうにもワタシ的にはしんどく(頭カタくてすみません)、読み進めるのに苦戦していると某所でぼやいたところ、まずは現代モノで文章に慣れてみたらどうかという提案をいただいたのでさっそく買ってきて先に読了しました。

女子中学生(第1部で中1、第2部で中2から中3)を主人公とした、SF要素もミステリ要素もトンデモぶっとび設定もなくファミ通文庫なんてレーベルでこんなのもあるんだ……と変な感心をしてしまうほどの“普通の話”です(私、ファミ通文庫に何か偏見持ってる?)。

そして、昔懐かしいとさえ言いたくなるほどまっすぐ生真面目で繊細な“少女の成長小説”でもありました。ファミ通文庫なのに(くどい)。こういうの、かなり好きです。

主人公をはじめとした登場人物たちの造形そのものは、けっこう作り物じみてステロタイプなのに(これは多分、意図的にそうしているのだと思う)、12歳頃の女の子が周囲の大人や同年代の男子たちとの関わりのなかで感じるとまどいや感情の揺れがリアルで、かつて女の子だったことのある人間としては、ところどころで「ああああ、そういうのあるあるあるある!」みたいな、いたたまれない気持ちに(笑)。

主人公が少女としての硬質な潔癖さを保っている一方で、周囲の環境はどろどろとした“大人の事情”にまみれており、彼女と、彼女が惹かれる男の子のふたりは、直接関わることはできないまま、否応なしにそれらを身近で目撃せざるを得ない状況に置かれてしまいます。

ものごとを咀嚼して乗り越えていくやり方は、それぞれに違っているけれど、どちらもひっそりと独りで考えをめぐらせて思いを抱え込むタイプ。途中で一度、物理的には離れ離れになりながらも、運命共同体のように、ほかから切り離されてふたりだけで分かち合うものがある。少年少女の恋愛話としては、ようやくはっきりとしてきたくらいの段階で一区切りとなっており、その、まだどろどろとした感情がほのめかすようにしか存在しない透明さも大人になってしまった読者の目からはいとおしい。

オトナになるってことは、ある程度「清濁あわせ呑む」ことができるようになるということでもあって、それができるようになるにつれて、生きていくことはたやすくなるのだけれど、それでもどこかで今でも、あわせ呑まなければならないこと自体が辛かった頃の自分を鮮明に覚えている人には、身につまされるところがあるのではないかと。

まだ上梓されていない第3部(完結編)では、主役のふたりは17歳だそうで。どうなっているのか楽しみです。

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2006年4月21日

中野翠『甘茶日記』

読了本 | 書籍・雑誌

毎日新聞社、2005年12月刊。【Amazon.co.jp】

毎年末に出る、『サンデー毎日』に連載していたコラムを中心にまとめたもの。いつもは数年後に文庫化されるまで待って「ああ、あの頃はこんなことがあったねえ」とおぼろげな記憶をたどったりするのが楽しいんだよ、などと思って単行本はパスしているのだけれど、ふと去年出たばかりのを読んでみたくなった。記憶が比較的新しいうちに読む時事ネタも悪くないものですな。

20代前半の頃、将来は中野翠みたいな中年女性になりたい、と憧れていました。その中野さんって、本当のところ、今おいくつなのかしら……と、さっきネットで検索してみたら、1946年生まれだって。今年60歳かー。しかし当然ながら、私の周囲の60歳前後の人たちとは比べ物にならないくらい、今でも中野さんって、頭が固くなってないよなあ。やっぱり、私は歳を取ったら中野翠みたいな人になりたい。ちょっと前までは、中年期を超えたら森茉莉が理想とか思っていたけど、森茉莉ではあまりに傍迷惑な気もするので、やっぱり今の憧れは中野翠だな。憧れるだけならタダだし。

一時期、共感できずに引っかかる文章が増えてきて、あんまり熱心に読まなくなっていたのだけれど、最近はこちらもちょっとは成長したのか、共感できなくても理解ができれば面白く読めるからオッケー、というスタンスで、ふたたび心穏やかに読めるようになってきたような気がします。いやでも実は、成長したんじゃなくて、10年前の精神状態に戻ったのかもしれない(笑)。

ここしばらく、10年前からの自分の古い読書感想文を少しずつ読み返して別ブログで整理しようとしているのだけれど、当時の中野翠の本の感想を読んだら、「ああ、今でも私、同じようなこと、思っているなあ」と、しみじみしちゃったのだ。

イマドキの若い人たちに苦言を呈してみたり、時事ニュースにツッコミを入れてみたりといった現実世界を見据えた文章を綴る一方で、時に植物の根っこなど眺めて


 きっと、イノチあるものはことごとくグロテスクさを免れないものなのだ。生きものが懸命に生きている様子は美しくもありグロテスクでもあり、キレイなだけのものはたぶん偽物。グロテスクと言っていいような何かまで含んだものこそ本物。ほんとうの感動は、美醜を超えたところにしかないのだ……。


なんて、感受性を尖らせた思春期の少女のようなことを書いてみたりもする、そんなところが、ものすごく好きだなあ、と思うのだ。

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2006年4月22日

高橋秀実『トラウマの国』

読了本 | 書籍・雑誌

新潮社、2005年2月刊。【Amazon.co.jp】


本書のタイトル『トラウマの国』とは、傷ついた日本という意味ではありません。自分をはっきりさせる目印を追い求める世界のことです。社会の中に自分があるのではなく、あなたの自分と私の自分が投影し合い、そこに「社会が生み出されるのです。(p.244)

先日読んだ、中野翠『甘茶日記』の中で、面白かった本として言及されていて、興味を引かれました。トラウマのグループ・セラピー、社会人向けの「話し方の学校」、日本共産党、素人が執筆した無数の「自分史」が閲覧できる愛知県の日本自分史センターなどなど、何かを追い求める人々の想いが集うさまざまな場所が取材されています。

『甘茶日記』の紹介文からは、なんとなくナンシー関『信仰の現場』(角川文庫)に似たような、対象と自分のあいだにしっかり一線を置いたスタンスのルポを想像していたのだけど、ちょっと違った。

取材しながら知らず知らずのうちに気持ち的に巻き込まれてしまい、詳しく突き詰めれば突き詰めるほどに対象の輪郭がぼやけていって、世間的なイメージと現実とがずれていく困惑を、困惑のままに書き綴っているような部分もあって。一線を置くというよりは、寄り添うかんじ。

Posted at 23:09 | 個別リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月27日

嶽本野ばら『ツインズ/続・世界の終わりという名の雑貨店』

読了本 | 書籍・雑誌

小学館、2001年12月。【Amazon.co.jp】

この作者の最初の小説単行本『ミシン』で表題作の前に収録されていた中篇「世界の終わりという雑貨店」の、その後の話。充分に美しく完結していた前作(ちなみにこれは私にとって初めて読んだ野ばら小説だったため、けっこう思い入れがあります)の結末から、どのように続編へと展開させるというんだ? と戦々恐々で読み始めました。

読了後の印象をひとことで言い表すならば、“過剰”。もっと俗っぽい言葉でいうなら、“てんこもり”?

えぐいところは徹底してえぐく、救いのないところは徹底して救いがなく、センチメンタルさは哀しい滑稽ささえ感じさせるところまで突き抜けており、物語の本質にとって重要でないところは豪快なまでに“お約束”を踏襲することでどんどん進めてしまう。そして前作のヒロインがお洋服に向き合うときの気持ちを「矜持」と表現していたのと同じく、本作でも、登場人物たちの口からはお洋服と対峙するときの熾烈なまでの心構えが説かれる。

前作では“こちら”と“あちら”のあいだで迷って宙ぶらりんなところで置いてけぼりを喰らったまま凍結されていた主人公(その宙ぶらりんさが儚くも美しかったわけですけれど)が、苦しむことになるのを分かっていながら自発的に自分の居場所を“あちら”と定め、新たに知り合った“存在の双子”たる少女と共に外部とのつながりを断って閉じこもってしまう。それは世間的には破滅と見なされるのだろうけれど、「矜持」をもって行われた選択は、そのような横槍をはねのけてしまっている。これはこれで、グロテスクだけど美しいのかなあ。

主人公の俗世での経歴には、作者自身を彷彿とさせる要素が多々あるけれど、現実の作者はおそらくは“あちら”側に惹かれるメンタリティを持ちつつ、今でも“こちら”側に留まっており、“こちら”側の私たちに通じる言葉によって作品を供給してくれ続けているわけなので、この主人公がたどった道は作者にとって、どうしても書かずにはいられなかった「かつてあり得た(これからあり得る?)自分のもうひとつの未来」なのかもしれない。

個人的には、痛みを抱えつつ“こちら”側に留まる可能性も半分くらい残された、前作の透明な余韻を大切に取っておきたかった気持ちもあるのですが。

Posted at 10:03 | 個別リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)

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All texts written by NARANO, Naomi.