« 2007年3月に読んだものメモ | 最近 | 墨攻 »

2007年4月 2日

中島義道『働くことがイヤな人のための本』

読了本 | 書籍・雑誌

働くことがイヤな人のための本

新潮文庫(2004年5月刊)/親本は日本経済新聞社(2001年2月)。
【Amazon.co.jp】

とても「なつかしい」ものに再会した気がしました。14〜15年ほど前、実際にコンスタントに働き始める前の私が考えていたのは、まさにこういうことだったのだ……! と、目の前が開けたかんじ。もやもやとしか感じ取れていなかったことを、ものすごく整然と、すっきり言語化してもらえた爽快感。

反面、結局これを読んだって、労働すること、人の世で生きていくことにまつわる辛い側面の輪郭がはっきりするだけで、辛さが軽減されるわけではありません。ただ、それをスルーして、努力によって前向きに「よかった探し」をしていくだけが、道じゃないだろっていう。理不尽なことに理屈をつけようとせず、理不尽なもののまま、あるがままに受け入れて、別の評価軸を追求していくこともまた、ある意味、救いになりうるし、動けずにいる身体を後押しする原動力になりうるのだ、という――すみません、私が要約すると、すごくバカっぽくなりました。分かったような気がしているだけで、実はまったく分かっていないのかも。

ちなみに、申し訳ないのですが文庫版の巻末解説(斎藤美奈子)は、自分の理解にいまいち自信のない私でさえ、ちょっとびっくりするくらい、なんか違うと感じてしまいました。斎藤さんが解説文の中で紹介している本書の内容を読んでも「いや、そういうことじゃないような?」ってしか思えない。もともと私は、斎藤さんのファンでもあるわけですが、彼女の文章で、ここまで壮絶に拒否感を覚えたのは久々(前回そういうふうに感じたのは、斎藤さんの「ハリポタ」評を読んだとき)。

とはいえ、斎藤さんが中島センセイのような人に苛立ちや違和感を覚える気持ちもまた、私は理解できなくはないのです。というか、本来なら、むしろ私は立場的には、斎藤さんサイドじゃなくちゃいけないはずなんだよなあ。

つまり、中島センセイのような「哲学を専門とする大学教授」が提示する形而上のあれこれ(斎藤さんのいう「中産階級的な悩み」)に引っかかっていられるほど恵まれた(ヒマな)環境になく、さらに言えば理不尽は社会の問題として具体的に捉えていかねばならぬ立場にある、斎藤さんが言うところの「生活者」であるはずなのですよ私は。

そんな私が中島センセイの本を読んで「これこそが私がかつて悩んでいたこと」などというのは、実は非常におこがましいことではないのか。

斎藤さんはこの本を読んで、まず「なんだかグチャグチャした本だなあ。これではよけいドツボにハマっていくじゃんか」という感想を抱いたそうなのです。そ……そうなのか(汗)。私も、本当は「目の前が開けた! モヤモヤしていたことがすっきりと整理されてきた!」なんてことを、言っていては、いけないのかもしれません。

大体にして、生活者としての現在の私が「働くのイヤ」って思うときに、まっさきに浮かぶ理由は、もはや中島センセイがおっしゃるような、そんなことではなくなっているのに。

今、働くのがイヤな理由はねえ……。たとえば、

  • とにかく疲れる。
  • 睡眠サイクルが乱れる。
  • とにかく疲れる。
  • 日がな一日パソコンのモニタを見つめ続けているので目が痛い。
  • とにかく疲れる。
  • おいしいものを食べるために生きているつもりなのに、気がつくと自分がご飯作りにかけている時間と手間は年々減っていってるのが悔しい(『19時から作るごはん』は愛読書だ!)。
  • とにかく疲れる。
  • ものすごい運動不足の自覚があるし、特に食事制限もしていないのに、この1年で9キログラム痩せた(待て、これはもしかしたら、むしろ喜ぶべきことか?)。
  • とにかく疲れる。
  • 友達から平日のお誘いを受けても遊びにいけず、一方で真面目な主婦の人(私の友達は大体みんなそう)は土日に家族を置いて遊び歩いたりしないので、直接会う機会がどんどん減ってゆき、寂しい。
  • とにかく疲れる。
  • 納期が詰まっているからお休みが取れないなどとウッカリ愚痴ったあげく「もっとゆったりとした気持ちで生活しないと!」みたいに諭されて自己嫌悪に陥る。
  • とにかく疲れる。

――などなど。どれもとても形而下っぽく、表面的で、世俗的なことばかりです。私は基本的にナマケモノなので、私程度の仕事でも疲れているし「イヤ」って思ったりしますが、もっと働いているしもっと疲れているけど「イヤ」と思わずにがんばっている人は、いくらでもいらっしゃるでしょう。

つまり、「仕事をすること」そのものに対する本質的なイヤさについては、今の私はすでに、押さえ込めている、ないし、この本に書いてあるような道筋を、ここまで理論整然とではなかったけれど、私なりにこの十数年でぐちゃぐちゃと紆余曲折しながら辿って、ある程度の折り合いはついているように思うのです。決して「私」じゃなくちゃいけないような性質の仕事ではないけれど。私はその他大勢の「歯車」の1つに過ぎないけれど。たまに「もっと面白い仕事をやりたいと思ったりしないの?」的なことを言われたりするけれど。やってる本人は、今の仕事もけっこう面白いと感じていたりするし。

それでも。かつて、この本に書いてあったような、斎藤さんには地面から足が3センチくらい浮いてると揶揄されそうなことをまさに「自分の問題」としてひしひしと感じていた私は、やっぱり今でも、どこかに存在するはずなのです。見過ぎ世過ぎのために黙々と(いや、時にぶちきれてわめきながら)働き続ける私のこの身体のなかで、虎視眈々と、表出する機会を狙っているのです。多分。この本に呼応したのは、《わたし》の奥深くに眠っている、そういう部分なのだと思う。

Posted at 2007年4月 2日 10:15



All texts written by NARANO, Naomi. HOME