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2007年10月 6日

ハ・ジン『待ち暮らし』

読了本 | 書籍・雑誌

待ち暮らし

土屋京子・訳/早川書房(2000年12月)【Amazon.co.jp】

中国生まれの在米作家ハ・ジン(金哈)が英語で書いた小説(Ha Jin "Waiting", 1999)の和訳版。1999年全米図書賞、2000年PEN/フォークナー賞受賞作。ピーター・チャン監督が、金城武とチャン・ツィイーを起用して映画化するというニュースを見たので、目を通してみました。

真面目な軍医である孔林(クオン・リン)は、1960年代に親から命じられるまま故郷で紹介された淑玉(シュユイ)と結婚しますが、その後になって、勤務先の看護婦、呉曼[女那](ウー・マンナ)と親しく言葉を交わすようになります。ふたりは結婚の意志を持ち始めますが、ろくろく心を開きあった会話をしたことすらないのに妻として母としての務めは申し分なく果たしてくれる、淑玉を離縁することはできません。裁判官の前に出るたびに、離婚の申し立ては却下されてしまいます。

孔林が既婚者であるかぎりは、お互いあくまでも軍病院に勤める「同志」としてのみあらねばならず、ふたりっきりで病院の外を歩くことすら規定により許されないまま、1984年の到来を待ち続けるしかすべのない孔林とマンナ。夫婦の別居が18年間続けば、相手の同意がなくても離婚できると軍規で認められているのです。

その18年のあいだに、ふたりとも歳をとり、社会状況は変遷し(この期間にあの文化大革命が起こっています)、事態を打破しようと試みた行動は中途半端に終わり、彼らの関係が公然の秘密となってしまったために真面目に働いても職場での評価はさほど上がらず、後ろ指をさされ、進展のないまま両者間の空気には倦怠が混じり込み、かといって時だけが過ぎるなかで今さら心変わりもできず。

そんな年月を重ねてしまったふたりだから、ついに念願の満18年を迎えたあとも、そのまま単純な「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました」的なエンディングにはなり得ない。

孔林という人は落ち着いた雰囲気のインテリで容姿にも恵まれた、傍目には素敵な人なのですが、基本的に「自分のやりたいことを追求する」よりも「他人から見てあるべき姿を保つ」ことに人生の比重を置いた、周囲に流されがちな人です。

決して悪人ではない。むしろ彼の置かれている環境においては珍しいほどに良心の人。大それた野望も、世間一般の価値観からはみ出すような欲望もない穏やかな常識人。そんな彼の唯一の「逸脱」が、妻帯者なのにマンナが寄せてくる好意を拒めなかったことでした。けれども互いの気持ちが確認できてからも、孔林の本質は変わらない。そこから自分で積極的に断固として何かを変えることができない。

だから、孔林とマンナが待ち暮らした18年は、決して清らかでまっすぐな純愛期間などではありません。常に保身と逡巡と諦念、そして生々しい打算に彩られている。その、ふたりの感情の動きが、ふりかかってくるさまざまな出来事と共に緻密にリアルに淡々と、それでいて容赦なく描かれているこの小説を読んでいるあいだ、私はずっと――


すーーんごくイライラ


していました(わーっ、すみません!)。文芸作品としては、この端正な筆致ときれいごとに終わらないリアリティは、高く評価されてしかるべきものなのであろうことは、ふだん娯楽小説ばかり読んでいる私にも、なんとなく(って、「なんとなく」かよ!)感じられます。

でも、この誠実なようでいて、実はその生真面目さ、融通のきかなさ故に、どっちつかずでズルい優男にもなってしまっている主人公を、映画版で金城くんが演じる予定っていうのは、ファンとしては正直キツいなあ。このままの雰囲気で映画化されるとしたら、なんかこう……カタルシスを感じることをあらかじめ拒絶されてるっていうか。

そしてまた、今回の映画化報道でいちばん気になっているのは、「ピーター・チャン監督ってば、3作も連続して金城くんを主役に使うなんて、どうしちゃったの!?」ということです。去年日本で公開された「ウィンターソング (如果・愛 Perhaps Love)」、今年の冬に中国語圏で公開予定の「投名状 The Warlords」、そしてこの「待ち暮らし」こと「等待 Waiting」

いったい何が、チャン監督に金城くん映画ばっかり撮り続けさせてしまっているの? そんなに監督にとっては、立て続けに「次はこんな役をやらせてみたい!」と、どんどんインスピレーションが湧いてしまうような魅力的な素材なんですか? いや、私たちファンにとっては、そりゃあ常に魅力的な人ですけど! 監督がそんなにも金城くんに入れ込んでくれるのは、そりゃあ嬉しいことですけど! でも、そんなことしちゃって、大丈夫なの?……とも思ってしまうのですよ、ピーター・チャン監督のお仕事をも愛する身としましては。特に理由はないのだけれど、なんとなく、恐ろしい(←おいおい)。

どんな映画になるんでしょうね。「ラヴソング」の頃のピーター・チャン監督しか知らなければ、もしかして原作の枠組みだけをもらって、「いろいろ横槍も入って翻弄されたけど結局は18年間の愛を貫き通したふたり」ってなポジティブ路線の後味よい映画にしてくれるのでは、という可能性も否定できなかったところだけど(いや、私は基本的に、原作の雰囲気をがらりと変えてしまうような映画化には反対なんですよ、本当は)。

「ウィンターソング」を観てしまった今となっては、主人公たちの決して美しくはないうじうじした側面をシビアに丹念に描き、人生における陽が当らず盛り上がらない部分を克明に提示して「世の中こんなもんだけど、それでも人は死ぬまでは生きていくのだ」みたいなかんじの、エンターテインメント性を極限まで削減した原作どおりの文芸映画になるんだろうなあ、と素直に覚悟しておくのが吉って気もします(ってそんな映画、涙を誘う美しい純愛物語が歓迎されがちなこの日本において、果たしてすんなり公開してもらえるんでしょうか? イヤな予感……)。

ああでも、「ラヴソング」も「ウィンターソング」も、共に「10年」がキーワードだったことを考えると、この作品でも原作の18年が映画版では10年に縮められていたって驚かないなあ、なんてことは、実はこっそりと思っていたり(笑)。

とりあえず、金城くんが今までやったことのないタイプの役であることはたしか。これで彼がまた新境地に到達してくれて興味深い映画になりますよう、ファンとしては心から祈っておきましょう。

(なんか後半、本そのものに対するコメントじゃなくなっちゃった……。)

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2007年10月18日

リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

読了本 | 書籍・雑誌

扶桑社(2005年6月)【Amazon.co.jp】

読了本記録によると、去年の秋に読み終えていて、その時点ですでに「いまさら」感がただよっていたのですが(ベストセラーとして話題になったり、「本屋大賞2006」で大賞作品として選ばれたりしたのはもっと前)、さらにさらに遅ればせながら、そのとき思ったことを書き留めたものを発掘してみました。

すごい「ひねくれたイヤなひと」っぽい感想なので注意。まあ、ものすごく世間の評価の高い作品だったし、たまにはこんな意見があっても、バランスが取れるというものだと思って、あるいは、素直に読めなかったカワイソウな人なのねと思って、この本が大好きで感動のあまり落涙を抑えられなかったという皆さんも、さらっと見逃していただければ……と。


*

 
図書館で予約してあったリリー・フランキーのあのベストセラーが忘れた頃にようやく回ってきたので読んでみたら、ものすごくブラックな感情が胸の内で渦巻きはじめて、どうしましょうってかんじだよ。なんなんでしょう、これは。

ウェブでちょっと検索すると、どの人もこの人も「号泣しました」、「感動しました」、「親孝行がしたくなりました」と絶賛の嵐なので、こんな私は心が汚れているのね……と、さらに暗い気持ちに。いや、心が清らかじゃないことなんてもう、もとから自覚しまくりなんですが。

「泣かせ」に持っていくための道具立てはそろっているのになあ。少年時代を過ごした九州の田舎町のノスタルジー。世間一般的な意味でのお上品さはないけど確固とした高潔なポリシーを持つ人情派の肝っ玉かあさんである「オカン」。ヤクザ者すれすれなんだけど憎めないキャラの「オトン」。ぐだぐだに自堕落な時期を経て、なんとか都会で一人前の仕事ができるようになった「ボク」。

癌を患って闘病生活をしながらも、上京して甲斐甲斐しく息子の世話を焼くオカン。その周囲に広がっていく人間関係。そしてついに訪れる別れ――

普段は(よく知らんけど)露悪的なことを言いまくっているリリー・フランキーが、臆面もなく真面目モードになって母への愛を綴った自伝的小説であるというのも、キャッチーだよね。

面白いところは、すごく面白いんですよ。育った町の描写とか、オカンがおばさんパワーを炸裂させてるエピソード(ハワイ旅行でコンビニの袋を帽子に、みたいなの)とかは好き。あと、東京に出てきてからの、ボクの友達とオカンが仲良くなっていくあたりもいい。

でも、全体的には、なんだかどよどよとした読後感なんだよなあ。

若い頃から苦労ばっかりで、自分のための居場所を持たず、息子のために身を粉にして働いてきたオカン。東京で伝染性の病気になったボクのために、朝一番で新幹線に乗ってやってくるような、そういうオカン。そりゃあ、残された側としては、なんとも言えない気分になるさ。

でもなあ。そもそも、オカンの苦労の少なくとも半分くらいは、ボク(≒著者)のせいじゃん!

実質的に母子家庭状態で、経済的に苦しいなか大学に行かせてもらったにもかかわらず、ロクに通いもせず、だれだれした生活を送って借金しまくって留年してオカンの貯金を使い果たして。もちろん、そのことはボクだって重々、承知していて、心苦しく感じていることは伝わってくるよ。

でも結局「それでも息子を見捨てず自己犠牲的に面倒を見る感動的な母の愛」のほうにストーリーの焦点が行ってしまうところに、なんとなーく「ずるい!」みたいな感情が。

自分がどんなふうに生きていけばいいのか分からずにいる若き日のボクが、そんな場合じゃないのにどんどん自堕落な生活を送ってしまっても、最終的にオカンを頼ることができるのは、心の奥底に、無自覚だったかもしれないけど「それでもオカンだけはボクを見捨てない」という確信があったからじゃないのかなあ。

もしかしたら私は、そのことが、憎しみを感じてしまうほどにうらやましいのかもしれません。とても健全なかんじがして。まぶしいほどに。

私自身は、物心ついた頃から母が亡くなるまでずっと、「何かお母さんの気に食わないことをしてしまったら、自分は速攻で見捨てられるに違いない」と信じていたから。今は、さすがにいくらなんでもそんなことはなかったでしょう、と思っているけれど、それはあくまでも理屈としてで、今でも心の底から理屈抜きで分かってはいないと思う。

実母が、私に愛情を持っていなかったとは思っていません。自分の人生を犠牲にしてまで身を粉にするタイプの母親じゃなかったかもだけどね(そんなこと、してほしいとも思わないわけだけど)。そして、通夜の席で親戚のおばさんが私に向かって
「あんたのお母さんは、あんたのことを自分のおもちゃのように扱っているところがあった」
などと言い出すくらいには、ちょっと愛情の示し方がズレてたけどね。

そのことについてはもう、納得はしているんだ。たとえ本当におもちゃだったとしても、私はあの人にとって、とても大切な、最愛のおもちゃだったはずだ――理性で考えれば。

十代に入ったばかりの頃に一度、直談判で、
「お母さんは、よそのおうちのお母さんと比べて、実の娘に接するときの態度が、あまりにも冷たくないですか?」
と訴えたことがあってね。

そうしたら大変、理性的に淡々とした口調で

「お母さんは若い頃から、あまり長くは生きられないと思っていたので、他人様にあなたを育ててもらう場合にご迷惑をかけないように……ということを常に念頭に置きながら子育てをしてきた。しかし思ったほどには早死にしなかったので、その状態が、あなたが大きくなるまでずっと続いてしまった。そのためにあなたがお母さんとのあいだに距離を感じているなら申し訳ないが、突然には変われない」

という、明解な回答をもらったので、もうこの人に動物的にぎゅーっとくるような、温かみのある、理屈を超えた、なりふりかまわぬ母性の表現を求めちゃ駄目だ、そんなことをしたら、この人が可哀相だ……と思ったよ。実際、決して長生きしたわけじゃないし、気持ちはすごく分かるんだよ。今は。

うん、マジで、愛情がなかったとは決して思っていないのだ。ある程度、私が大きくなってからは「共通の趣味を持つ年上の友人」としては最高の相手だったと思うし(その趣味っていうの自体が、母の影響によるものだったんですけどね)。

大体、母親から子への態度がどうであれ、子から見た母親は、常に絶対的な愛情の対象になるんだよ。どんなことがあっても。だからこそ心を引き裂かれて苦しむ人もいるわけですが、私はそこまで追い詰められはしなかった。それだけでもラッキーだった。だったらもう、それでいいじゃん? 私は、私の母のことを、最後までほぼ「好き」という側に傾いた感情だけで見ていることができた。それって、とてもありがたい、感謝すべきことだよね?

でもやっぱり、こういう『東京タワー』みたいなお話を読むと、ついつい、ものすごおおくブラックな気持ちになるんだよね。どっかで、今でも割り切れていないのかしら?

実母に対しては、「同じ土俵に上がる前に逃げられた」とか「私のことを海のものとも山のものともつかぬヤツと思われたままに終わった」とか、そういう気持ちもあるからなあ。リリー・フランキーがああいう本を書けちゃったのは、なんとかやっていけそうな、いっぱしの大人になった自分をオカンに見届けてもらえたからこそじゃん! という醜い嫉妬が湧いてきたり。うーん、うーん。他人と比べても仕方ないんですけどね。そもそも私、この歳になってさえ、全然「いっぱし」じゃないし。

あるいは、もっと思いっきしフィクションとして技巧的に作りこんであれば、もう少し素直に読めてたかもしれない。記憶が昇華され、込められた思いだけがすくい取られ煮詰められ表現された、純粋な「作品」として評価できるものになっていれば。

親との関係および親の死なんてものに対する、センティメンタルな思いは誰しもみんな、他者とは共有しづらい自分だけのそれを胸の内に抱えていて、だけどふつーの人はそれを外には出さずにぐっと呑み込んで日々の生活を送っているのに、アナタは思う存分、ほぼナマに近いまま、いや、むしろおセンチさをさらに演出する方向で、げろろろろんと大勢の人の前に吐き出しちゃって、そりゃー、さぞかしスッキリできたことであろうよ……みたいな「ひがみ根性」が入っていることは自覚してますです、はい(と、いうわけで試しに上述のように自分もちょっと一部を吐き出してみた←こらこら)。

あと、正直ドン引きしたのが、オカンやボクが形成する世界の外にいる人たちへの、視線の冷たさですね。

オカンが躾をしなかったボクの箸の持ち方を笑った女の子、オカンのごはんを食べずに帰った女の子、オカンの癌が再発していたのに対応がクールだったお医者さん、臨終間際に「人の命や死に対して、完全に麻痺した」言動をとった(と、ボクに感じられた)看護師さんなどなど。

ボクにとっては薄っぺらい、本当に大事なものが分かっていない、馬鹿な人間たちかもしれないけれど。でも私は彼らに対する悪意たっぷりな書かれ方に、哀しい気持ちが湧きました。

こういう箇所でいたたまれないものを感じるのは、私自身が、たとえば母の闘病中にお世話になったお医者さんや看護師さんたちのことを、今でも強烈な感謝の念と共に記憶しているせいかもしれません。私たちだって、すごく事務的に対応されたりもしたけれど、それでも。

ある程度、感覚が麻痺してなくちゃ継続できないことって、あると思うんだ。そういう人たちのおかげで、麻痺していないボク(そして私)たちは、のうのうとナイーブなアフォリズムを口にしていられるんだよ。

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2007年10月19日

若山慧子『忙しい人こそ料理は上手い』

読了本 | 書籍・雑誌 | 近況

忙しい人こそ料理は上手い

小学館(2006年12月)【Amazon.co.jp】

実は先月末に思うところあって(というか軟弱にも気力と体力の限界が近いのを感じて)、長期休業を決めました。復帰時期未定。というか、復帰なんてできるのか?(一応、今までの仕事先からは、またやる気になったら声掛けて、と言っていただいているのですが、ブランクがあんまり長くなるとマズいよなあ?)

まあ、今までそれなりに(自分基準では)頑張ったし、しばらくは貯金をちびちびと消費しながら今後のことを考えるさ。諸般の事情により、無収入になっても社会保険制度上では配偶者の扶養に入ったりはしないので、ちょっと計算が狂いましたが、結婚してなかった場合を考えれば一緒だしな。そのうちなんとかなるだろー(と、思わないとやっていけん)。

ちなみに、身体の具体的な不調について病院で「ストレス性」である可能性を指摘されたときも、それと前後して「もう働きたくない、というか働こうとしても身体が動かない」という状態になってしまったときも、予想外な感情が湧いてきて自分でもびっくりでした。この件については、またいつか書くかも。今はとりあえず、学生時代以来の静かな生活を楽しんでいます。

さて、この『忙しい人こそ料理は上手い』という本は、各方面に休業のご挨拶をしちゃった直後に読んだもの。ずいぶん前に最寄りの図書館で予約したまま忘れかけていたのですが、皮肉なタイミングで順番が回ってきてしまいました。「予約入れた当時と違って、わたくし忙しくなくなっちゃったんですが……」と思いつつ、せっかくなので借りてきました。

この本、タイトルはこんなのですが、中身を読んでみると、昭和43年(うわ、私まだ生まれてないよ)にNHKに就職して料理番組担当のディレクターとして定年まで勤め上げたのち、まだ番組を作ったりしているという著者・若山さんの、仕事にまつわるいろんな思い出話みたいな部分がいちばん面白い。

長寿番組「今日の料理」のテーマ音楽(富田勲)誕生秘話とか。平野レミさんを起用したら「NHKらしくない」とクレームの電話がばんばん来たとか(きゃははは)。そんなエピソードの合間合間に、レシピもちょこちょこ。

全体としては、働くお母さんへの風当たりも今よりずっと強かったであろう時代に、子供2人を育てつつ敏腕チーフディレクターとして出張もありの不規則な仕事で活躍してきた若山さんが、どのように効率的な調理手順を工夫して省略可能なところを省略しつつ食事作りを乗り切ったか、というのがテーマではあります。

時代が時代なだけに、よほどのことがなければ子供さんや旦那さんにはお皿洗いすら手伝わせることなく、市販品や出来合いのお惣菜やレトルトに頼らず、緊急時であろうと外食やてんや物という選択肢は却下、毎夕食後のデザートまで簡単なものながらきっちり手作りですよ。すごーーー。

体力の限界を感じて、旦那さまに「辞める?」と提案されても


「私には夫がいて辞めてもいいのだ。待てよ、それって甘えかな? 生きていく為に、働き続けなければいけない人がほとんどなのだから」


という考え方で、疲れきった身体に鞭打って出勤しつづけたという若山さん。

そして「私にもできたのだから、あなたにもできるはず! あとちょっと頑張ればいいのよ!」という論調で読者に向かって語りかけてくださいます。励まされて、「よし、私も頑張るぞ!」と思うのが素直な受け止め方なのでしょうが、正直、今の私が読むと「すみません、すみません」という感じ(笑)。

私もさー。今まで、
「ほかの人にできてることを私にはできないっていうのは甘えだ。どんなに辛くても働かなくちゃいけない人が世間にはたくさんいるのに、自分自身は配偶者の収入で食えるからって、いったん始めちゃったことを辞めますっていうのも、許されない甘えだ」
という気持ちが、すごく強かった。

でもねえ。できないときだって、あるよ(開き直り)。

あとちょっと頑張ろう、もうちょっと頑張ろう……と思って実際に頑張ることを繰り返していたら、ある日いきなり、片方の耳が聞こえなくなっていたり、目が回って起き上がれなくなっていたりするのよ(笑)。情けないけど。「要領よく頑張ることが可能であるかどうか」ということ自体、資質の問題でもあるのよ。多分。

まあ、体調を崩しても会社に行きつづける人は行きつづけるので、そこで休業しちゃうっていうのは、やっぱり甘えているといえば甘えているのでしょうけれど。

ただ、この本を通読すると、若山さんを支えていたのは、別に「甘えちゃいけない」という意識だけではなかったはずだよなあ、ということも、すごくよく分かるのだ。この人、本当に心の底から、自分の仕事が好きだったし、今でも好きなんだ。

そのことは、こんな状態の私にとっても、救いではある。こんなすごい人だって、単なる義務感と使命感だけで頑張れてたわけじゃないんだ、と。

あと、「生きていくために働きつづけなくちゃいけない人がいるのに、夫がいるからって甘えて辞めてしまうのはいけない」という考え方についてですが。

むしろ逆の考え方だって、できるんだよなあ。

これまでずっと個人の自営でやってきて、周囲から「ナラノには、いざとなれば食わせてくれる旦那がいて、とりあえず路頭に迷うことはないのだから、仕事の取り合いなんかに参入せず、切実に生活費を稼ぎ続ける必要のある独身者や子持ちの人にパイを譲るべき」という空気を感じたことが、一度もないなんて言わないよ、私は。そのときはそのときで、「そんなの、仕事をくれる側が判断することじゃーん」って開き直っていたんですけどね。

そんなこんなで、これもある意味、傲慢かもしれないけど、今だって私が仕事をしていないという事実によって、風が吹けば桶屋が儲かる方式で回り回って助かっている人が、この世のどこかにいるかもしれないなあ、なんてことも、思ってしまうのだ。わははは! ただただのんびり暮らすだけで世のため人のため!(←おいおい)

まあそのうち、次の流れも見えてくるでしょう。

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2007年10月20日

藤田香織『だらしな日記―食事と体脂肪と読書の因果関係について考察する』

読了本 | 書籍・雑誌

だらしな日記

幻冬舎(2002年6月)【Amazon.co.jp】

前述のように自宅でやっていた仕事をしばらく休むことに決めて、でも本当はまだまだ頑張れたんじゃないか、いや壊れる一歩手前だったよこれでよかったんだよ、いややっぱり……とぐるぐる考えちゃってたとき、「まあまあ、これでも読んで、気楽にね」と、友達が貸してくれた本。「これを読めば『私、これでもいいんだ!』っていう気になれるかも」って。

かつて幻冬舎のウェブサイトで連載されていた、2001年1月末から2002年1月までの日記。毎日の体脂肪の数値と食事内容のあとに、その日の行動や考えたことが続き、最後に読んだ本のタイトルと簡単なコメントが付くという形式。

もうね、これ読んでるとね、ものすごくお腹が空くよ! 深夜にこってりしたものが食べたくなるよ! 危険! しかし著者がとっても美味しそうな自作のカルボナーラを食べているくだりを読みながら「ブリオッシュにたっぷりバター塗って食べたい」とか思ってしまう私の頭はどうなっているのか。あ、卵か。卵つながりか。

でもさー。この人って、本質的には、ご自分で言うほどの「だらしな」じゃないのでは? 食べることに関してはかなりマメだし(それはそれで心配になるほどの食欲と不規則さではあるんですが)。

そりゃー、何日もお風呂に入らなかったり、一度外に干した洗濯物を雨が降ってまた晴れてそれでもまだ干しっぱなしだったりなんてときもある。一人暮らしでフリーランスの書評家兼ライターさんで、自腹で買う書籍や寄贈される書籍がどんどん増えていくうえに掃除が大嫌いとあって、実際に写真が掲載されている仕事部屋は、マジですさまじいことになっている。トイレに行ったあと手を洗うのが嫌なんてことも、さらっと書いちゃう。

しかしその一方で、この日記を読んでると、ものすごい勢いで次々と仕事してるんだよ、藤田さんって。多分この人は、自分の持てる「きちんとするためのエネルギー」のほとんどを、怒涛のスケジュールを自転車操業でこなしつつ仕事のクオリティを保つこと(および、美味しいものを食べること)に振り分けちゃってるんだよ。決して、きちんとするためのエネルギーが「ない」わけじゃなく。

忙しいのは仕事が多いからじゃなく、仕事が遅いから、という感じで(謙遜して?)書いてらっしゃる箇所もあるんだけど、単純作業じゃないんだし、執筆以外に取材や調査も必要だし、1時間に×文字、連続×時間で完了、とか予測できる職種じゃないよね? ある程度、ぼーっとする時間もないと、脳味噌だってクリアにならないよね?

こういうふうに仕事をしつつ、精神の安定を保ち、なおかつ第三者の目から見て「きちんとしてる」と判定してもらえるような、健康に配慮した折り目正しい生活を続けるなんて――もちろんできる人もいるだろう。けど、(たとえ意識的にではなくとも)生活部分を切り捨てる人がいることも、まったく不思議じゃない。だからこの日記をウェブに公開して、身近な人たちから、もうちょっとなんとかしろ的なことを言われたと藤田さんは書いておられたけど、「仕方ないんじゃ?」という感想しか出てこない。

昼も夜もなく仕事に追いまくられる日々の記録からの連想で、
「私も熱を出してふらふらになりつつ手持ちの仕事をようやく片づけて寝込んでいたら目が覚めたとき部屋いっぱいにFAX紙の海がうねうねと広がっていたことがあったなー(←ロール紙FAX機しか持ってなかった時代)」
とか、
「連日の根詰め仕事ののちの徹夜ラストスパート明けに夫の両親とお出かけしなくちゃいけなくてロクに会話もできず意識が朦朧としたままひたすら愛想笑いしていたなー」
とか、
「夜分に突然の電話で押し切られて翌朝までほかの人の仕事のチェックとリライトをしたあと友人の結婚式に出席すべくギリギリで新幹線に滑り込んだんだよなー」
などと、藤田さんのエピソードと類似した自分自身の胃がギューッと痛くなるような記憶がどんどんよみがえってしまい、心臓をばくばくさせながら涙目で読み進む羽目に。とにかく日記の文章そのものがとても面白いので、涙ぐみつつ読むのをやめることができないのだ。読了本に関するひとことコメントも、簡潔にして的確、そしてジャンルの幅が広い。

気持ちが弱ってくると関係ないアルバイトの募集広告を見ちゃうとか(藤田さんはクリーニング屋だったが私は駅近くのパン屋だ!)、仕事中に電話やメールの着信音が鳴ると心臓が“ドックン!”と音を立てるのが聞き取れるほどだけど、なんでこんなに年がら年中ビクビクしてるんだろうとか、はるかに低レベルな働き方しかしてなかったであろう私ごときが言うのっておこがましいんだろうけど、あまりにもかつての自分と同じで、息が苦しくなるほどでした。

しかしそんなこんなしつつも、藤田さんは「この仕事を選んだのは自分。続けていくと決めたのも自分。」と日記に書き、時には抗不安薬や抗鬱剤を飲んだりもしながら頑張ってしまう。あうあうあう。布団をかぶってえぐえぐえぐと泣きながら「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいワタシ程度の不調で何もかも投げ出しちゃってごめんなさいいいいぃぃぃ!」と叫びたくなったこと、この本を読んでいるあいだに10回以上。やらないけどね。

あと、仕事をする姿勢についても、いろいろと考えさせられた。自分を振り返って、すごく情けなくなったり、身につまされたり。たとえば、8年間ずっと関与してきた雑誌で、守備範囲外の仕事をさせられて担当編集者と話をしたあとの、こんな記述。


フリーで仕事をしていると「断る」ことに非常に臆病になるが、きちんとできないことはできないと言わないと相手にも編集部にも失礼だし、何より自分がとてつもなく落ち込んでしまう。


あるいは、ほんの1ページの雑誌記事でも、それに関わる多くの人間のうち、1人の予定がたった1日ずれただけで、「雪崩」のようにすべてが狂っていくが、お互いさまなので怒りは感じない、という説明のあとに続けられる、こんな記述。


こういうときに思うのは、「コミュニケーション」の大切さで、同じことでも信頼関係のない相手から言われるとイライラしてしまいがち。自分の精神状態のためにも、ちゃんと人と向き合っていかなくてはいかんな、と改めて思う。


これには、目が回るほどガツンとやられてしまいました。私はいつも、ほかからやってきた雪崩の衝撃はわりと淡々と引き受けてきたが、自分自身が雪崩を引き起こす側になるのは、とてつもなく怖かった。それは、責任感が強かったからじゃない。コミュニケーションを取るのが、面倒だったのだ。自分が、同じ仕事に関わっている人たちと信頼関係を築けているという自信が、なかったのだ。でも、それじゃダメだよなあ。

今度もし仕事に復帰できたら、そのときは、もうちょっとスマートにやれるだろうか。重い。でも、えぐえぐ泣いてるだけじゃなく、真摯に受け止めてちゃんと考えなくてはいけないことだと思う。ま、そのうちね。

……えーと。この辺でだんだん、本書を貸してくれた人の思惑から、自分の反応がどんどんずれてってるような気がしてきましたが(落ち込んでいる相手に、さらに追い打ちをかけるように、えぐえぐ泣きたくなる本を読ませるようなオニな友達じゃないはずなので)。

ただ、「人間には、能力の限界というものがあり、そのレベルは人それぞれである」ということには、改めて気付かされたような気がする。何もかもを手にすることはできない(できる人もいるけど)。だったら何を選び、何を捨てるか。ある一定のエネルギーを、どこにどう配分するか。

どうやら日々の活動に費やせるエネルギー全体量が人より少ないらしい私が、(それなりに掃除された)快適な居住空間や、家族と過ごす時間を捨てる覚悟を持てないのなら、ほかのものを切り捨てるのが自然のなりゆき。できもしないくせに、すべてを手にしようと無理にあがいていたからこそ、今の私は何もかも中途半端なままパンクして呆然とするしかなくなってしまっているんだろう。

そういう意味では、「こんな私でもいいんだ」と納得する(というか、納得しなくちゃいけないと自分に言い聞かせる)足がかりに、なったかなあ。


(追記)
ざざっとウェブで情報をあさってみたら、藤田さんてばこのあとに続く『やっぱりだらしな日記+だらしなマンション購入記』では、ペットを飼い始めて、そのために掃除もするようになったそうではありませんか! ほんとかよ!? ぎゃーす! そんな人はもう、まるっっっきり「だらしな」の風上にも置けませんな! タイトル変えろよ! ぜーはー。しかしながら、この続編もすでに借りてあるし、蕎麦屋の帰りに衝動買いしたというマンションのお話もすっごく気になるので、読みますよ、読みますとも!

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2007年10月30日

2007年10月に読んだものメモ(前)

読了本 | 書籍・雑誌

今月は、冊数がちょっとだけいつもより多いので、メモを前編と後編に分けてみることにしました。


城平京『小説 スパイラル〜推理の絆〜 4 幸福の終わり、終りの幸福』(エニックス,2004年4月)
 先月から読み続けていたシリーズの最終巻。これまでの3巻では「おまけ短編」的な扱いで本の後半に収録されていた、「小日向くるみ」連作のほうをメインにして、鳴海清隆との決着をつけています。これで完全に、本編ともリンクしました。タイムライン的には、本編よりも少し前の話なのですが、主人公である鳴海歩が恐ろしく大人びた小学生として登場し、本編の背景エピソードとしても楽しめます。まあ、この後の彼は本編でいろいろと悲惨な目に遭っていくわけですが。【Amazon.co.jp】


香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(幻冬舎,2006年11月)
 従来のアヤシゲと言われがちだった心霊主義や新興宗教と違って明るくオシャレなイメージだったりするスピリチュアル系。ブームの仕掛け人や一部の人々の意識には必ずしも合致しているとは限らないながら、多くの層がここに求めているのは、恋愛や金銭などの現世利益的な個人の幸福を追求すること(結果として他人を蹴落とすことになっても、そこはスルー)、という分析に、なるほどなるほど、と。宗教だと、辛い修行があったりして個人の幸福を犠牲にしてでも……という方向に行きがちだけれど、それはもう流行らない、と。
 テレビを見る習慣がないもので、本書で詳しく取り上げられている江原なんとかという人の話がよく分からなかった。そんなに癒し系な容姿の方なんでしょうか。【Amazon.co.jp】


岸本葉子『刺激的生活』(潮出版社,2007年7月)
 日々の生活を綴ったエッセイ集。一人暮らしでフリーランスだけど、きちんと自分の身体を定期的に点検して、それを面白くレポートしてくれるので、読んでるこっちも「病院」というところに対する恐怖感が薄れてきてありがたい(実は、会社の健康診断がなくなってからの6年半、今年の9月になるまで、不調なときがあってもなんだかんだと理由を付けて一度も病院というところに足を踏み入れたことのなかった私です)。大量の下剤を飲んでの大腸検査なんてのも、かなり詳細にプロセスの説明があるんだけど、そんな内容でも文章がとてもクリーンで上品な雰囲気なのはさすが。
 かといって、ははーっとひれ伏したくなるほど自律的でストイックな生活というわけでもなく、適度にドジっていたり、ゆるゆるしているところが心地よい。【Amazon.co.jp】


k.m.p.(なかがわみどり&ムラマツエリコ)『ぐるぐるしてる、オンナたち。』(角川文庫/2006年12月)
 単行本『ぐるぐるなまいにち。』(JTBパブリッシング,1999年3月)の中から、特にジェンダー問題や男女の関係性についての部分を選り抜いて再編集したもの。ここで例に挙がっている、著者たちをイライラさせるステレオタイプな男女関係は、あまりにも分かりやすくパターン化されていて、デフォルメされてるのでは?とさえ思ってしまうほどだけれど、実は意外と、まだまだ現実もそういうものなのかもしれず。とにかく、各人が自分の意思に基づいて自らの「ありかた」を決めて、それが他者から口出しされたり見下されたりしないっていうのは、理想だけど、なかなか難しいものだよねえ。
 ところで、k.m.p. というのは「金もーけプロジェクト」の略なんですな。素敵。【Amazon.co.jp】


三浦しをん『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社,2006年7月)
 いろんなところに載った書評を1冊に集めたもの。こ……これはすごいブックガイドだ! まったく読んだことのない、本来ならまったく私の守備範囲からは外れているはずの本に関する文章がこんなに面白く読めて、しかも「うわああ、その本、読みたいっ!」という気持ちが湧いてくるなんて。何かもう、本に対する愛情が詰まってますってかんじだなあ。素晴らしい。しかも、原稿を依頼されたときの要求に沿って、新刊書の紹介が主眼のものについては、きっちりその新刊書をメインに置き、三浦さん自身のキャラが求められている媒体では、ちゃんと持ち味を炸裂させつつ本の話題につなげ。ほんと、巧いよなあ。素晴らしい。実に素晴らしい。難点は、文章そのものが面白すぎて、メモも取らずがんがん読み進んでしまったため、興味が湧いた本の説明が載っているページを読了後に改めて必死で探さねばならなかったことくらいです。【Amazon.co.jp】


藤田香織『だらしな日記―食事と体脂肪と読書の因果関係について考察する』(幻冬舎,2002年6月)
 独り暮らしの書評家である藤田さんが、幻冬舎のウェブサイトで連載している日記のうち、2001年1月末から2002年1月までの分。別途、感想文を書きました。【Amazon.co.jp】


高橋秀実『素晴らしきラジオ体操』(小学館文庫,2002年8月/1998年8月)
 ラジオ体操の意外な発祥と変遷、現在の位置づけ、そして毎朝ラジオ体操せずにはおれない、「ラジオ体操人」たちとの対話。この著者のノンフィクション本は、どれを読んでも取材対象への誠実な気遣いと、思わずツッコミを入れずにはおれない人情(読者へのフォロー?)のバランスが、とても好きです。【Amazon.co.jp】


中村うさぎ+加藤寛『税金を払う人使う人』(日経BP社,2001年7月)
 港区役所と闘う滞納女王(と、表紙の著者名の上に書いてある)中村うさぎが、政府税制調査会の会長を退任したばかりだった、経済学者の加藤寛先生に、税金のしくみについて解説を受ける、というもの。2001年の本なので、引き合いに出されている情報は古いのですが、すごく基本的な考え方の部分から話が始まっており、しかも、そうか私もそこから考えたことなかったんだなあ、ということに、気付かされてしまった部分もたくさんあった。将来を考えると暗いネタもいろいろありますが、いろいろなたとえ話も織り交ぜながら、すっきりと整理されていて、単純に面白かった。【Amazon.co.jp】


中村うさぎ『女という病』(新潮社,2005年8月)
 初出『新潮45』2004年1月号〜2005年3月号。女性が犯人または被害者になった事件を取り上げて、中村うさぎが検証するというもの。情報を集めて事実を探ることよりも、著者自身が、当事者に憑依するように感情移入して内面を推測し書き綴るというほうに重点が置かれているため、どの事件について読んでいても、結局のところ浮き上がってくるのは、どうしても「こういう感情移入をせざるを得ない中村うさぎ自身」になってしまうのですが、これこそが、この著者の芸風なんだろうなあということで納得。【Amazon.co.jp】


このあとに読んだものについては、明日付けの記事で。

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2007年10月31日

2007年10月に読んだものメモ(後)

読了本 | 書籍・雑誌

と、いうわけで「(前)」のつづき。普段よりちょっと冊数が多いとはいえ、こうやって列挙してみると、小説本は少なかったなあ。


小倉千加子『宙(そら)飛ぶ教室』(朝日新聞社,2007年8月)
 初出『一冊の本』2005年7月号〜2007年4月号。カテゴリーとしては身辺雑記エッセイ? 大学の先生なんだと思っていた小倉さんが、連載の最後のほうから突然、保育園の先生にもなっていて驚いた。
 なんだかんだ言っても、小倉先生の書いているものを読んで思うのは、少なくとも現在の先生は、周囲に対する目がとてもやさしいよなあ、ということです。そしてそのやさしさには、諦念も混じっているのかもしれないということです。本当は、置かれた状況に甘んじている者に対して、もっと闘えと発破をかけたいのかもしれない、でも「闘う素質のない者」や「闘わなくても幸せにやっていける者」に発破をかけることの危険性にも、気付いてしまっている。だからこそ、異端となってでも闘う者に注ぎ込む思い入れは大きくなっていく、そんな印象。
 そして、この本で象徴的に何度も登場する「異端者・闘う者」代表が、小倉先生がファンでいらっしゃる元宝塚宙(そら)組のトップスター和央ようかさん(と、その相棒の娘役で、引退後も彼女をサポートする花總まりさん)なのだという気がしました。宝塚の舞台はまったく見たことがないのですが、情熱を込めた宝塚論と、その一方で同好のほかのファンほど無邪気に熱くはハマれないでいる、どこか冷めた分析的な部分とが拮抗しているさまが、僭越ながらなんだか分かる気がするなあ、と。【Amazon.co.jp】


中島たい子『そろそろくる』(集英社,2006年3月)
 小説。周期的にやってくる、自分では制御できない感情の荒波に振り回されていたイラストレーターの主人公が、PMSという言葉と出会う(PMSの意味が分からない人はGoogle先生に聞いてみよう)。傍目からは単なる我儘とも捉えられかねない理解不能な「現象」であったものが、実は「症状」であって、ある程度は「対処」が可能なんだと分かるだけでも、気持が軽くなるよなあ、ということを改めて思いました。【Amazon.co.jp】


春日武彦『本当は不気味で怖ろしい自分探し』(草思社,2007年5月)
 高橋秀実の『素晴らしきラジオ体操』を読んだあと、著者名で検索をかけていて、高橋さんと春日さんの対談に行きあたったら、ここでトピックになってる本も読んでみたくなった。ゆるゆると肩の力が抜けているようで、実はある種の人びとに対してはかなり辛辣。かと言って、決していわゆる「上から目線」ではないところが、器の大きい人なんだなあ、という印象。
 すごくツボにハマったフレーズがたくさんあった。【Amazon.co.jp】


藤田香織『やっぱりだらしな日記+だらしなマンション購入記』(幻冬舎,2003年10月)
 1冊目の『だらしな日記』のように、びっしり毎日じゃない分、ほんとに「壊れた」日の記述はなかったりするみたいなので、こっちはまだ心臓にはやさしいかんじ(笑)。ダイエット効果で食べ物への情熱が増して、食事記録がちょっとしたレシピ集みたいになってる時期もあるので、お腹は1冊目を読んでたときよりさらに空きました。ふらっと看板につられてショールームを見に行った先で衝動的にマンションを購入しちゃった話は、やっぱりすごい。
 でも、断食合宿で食べるという行為を見直したり、新しいマンションでペットを飼い始めて生活が変わったりと、徐々にいろんなことが前に進んでいるかんじ。【Amazon.co.jp】


永井するみ『ドロップス』(講談社,2007年7月)
 1つ目のお話の脇役が、次のお話の主人公になって……というような形式で続いていく、さまざまな立場にある女性たち4人の、とあるコンサート開催までの日々を描いた連作短編集。それぞれが、傍目からはカッコよく見えていたり、なのに内実は、けっこう悩んでいたり。そーゆーもんだよね。主役のうちの1人が、突発性難聴になってた。って、そこを特筆するのか私。【Amazon.co.jp】


能町みね子『オカマだけどOLやってます』(竹書房,2006年10月)
 人気ブログを書籍化したもの。「性同一性障害」という診断は受けているけれど、本人としては「障害」という言葉からイメージされるほど、不幸を背負ってるつもりはないよ、という気持ちを込めての「オカマ」自称なのだそうで。
 その宣言(?)どおり、からりとした文章と適度に肩の力の抜けたイラストで描かれるOLになるまでの道のりと、その後の日々。ものごとに対する感覚を、すごく的確かつ簡潔に面白く興味を引くように伝えられる人ですね。豪快かつピンポイントな突っ込みの入れ方とか見てると、すごく細やかなところに気がつく人なんだろうなあ、と。性同一性障害関係の本は、これまでにも何冊か読んでいるけど、本当に人それぞれっぽい。性認識って、実はグラデーション。【Amazon.co.jp】



以下、漫画本。


高津カリノ『WORKING!!』第4巻(ヤングガンガンコミックス,2007年10月)
 濃いキャラクターがそろうファミレス4コマ最新刊。恋愛方面のネタがついにいろいろ盛り上がるのか……と思いきや、案の定ぐだぐだに(笑)。楽しませていただきました。【Amazon.co.jp】


森薫『エマ』第9巻(エンターブレインBEAM COMIX,2007年9月)
 番外編集、第2弾。なんかこう、「とにかく、こんなの描きたい!」という思いつきで突っ走って描いてるんじゃないかなあって雰囲気。したがって「だから、何?」みたいなかんじになっちゃってるエピソードもあるんだけど、やっぱりこの人の作品は、そんな野暮なこと言わずに、その「情熱」に当てられながら読むのが正しいのだろうな。最初のお話の一連のリス視点のコマがダイナミックで好きだった。【Amazon.co.jp】


こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社,2004年10月)
 「ヒロシマ」を語るのに、こういうアプローチがあったのか! 出てすぐの頃から、ずいぶんと話題になっていた作品なので、いまさら私があれこれ言うこともないのですが。というか、これは……ちょっと読んだだけでは、おいそれと感想なんて書けないなあ、本当は。読むたびに、新たな面に気付いてしまいそうで。間接的な表現に留められていることが、あまりに多くて。淡々とした静かなトーンの作品なのだけれど、実はものすごく饒舌とも言えるんじゃないだろうか。
 絵柄も、少し懐かしいかんじで一見やさしく素朴だけど、丹念に計算され丁寧に描き込まれています。読み進むうちに、だんだんとページをめくる速度が遅くなる。原爆が投下されたときのことそれ自体を直接的に示すのではなく、ごくごく普通の人たちの世代を超えた「その後」を、抑制された表現で見せていくことで、当事者以外の者たちには単なる日常のひとこまとしか見えない光景であっても、その表面をぺろりと一皮むけば、まだ深い爪痕が残っているのだと、語りかけてくる。あれは顔も分からぬ相手に対する、明確な殺意であったのだと、改めて訴えかけられて、すう……っと、背筋が寒くなる。それでも、最後のコマで描かれる「平凡な日常」への回帰は、明るく、なんのへんてつもなく、だからこそ、希望と強さが感じられて美しい。
 うーん、何を書いても、ピントずれてるような気がしますが、とりあえず、印象メモとしてはこんなかんじで。【Amazon.co.jp】


吉野朔実『本を読む兄、読まぬ兄 吉野朔実劇場』(本の雑誌社,2007年6月)
 初出『本の雑誌』2004年11月号〜2007年6月号。読書エッセイ漫画(という、くくりでいいんだろうか?)シリーズの新しいの。相変わらず、守備範囲が広いなあ。そして、目のつけどころが、さすが。何か、このシリーズを読んでると、ちょっとしたことが、すごく特別にキラキラして見えちゃう。まあ、私が、中学時代から吉野さんのファンだからっていうのもあるかもしれないんだけど。【Amazon.co.jp】

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