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2007年10月20日

藤田香織『だらしな日記―食事と体脂肪と読書の因果関係について考察する』

読了本 | 書籍・雑誌

だらしな日記

幻冬舎(2002年6月)【Amazon.co.jp】

前述のように自宅でやっていた仕事をしばらく休むことに決めて、でも本当はまだまだ頑張れたんじゃないか、いや壊れる一歩手前だったよこれでよかったんだよ、いややっぱり……とぐるぐる考えちゃってたとき、「まあまあ、これでも読んで、気楽にね」と、友達が貸してくれた本。「これを読めば『私、これでもいいんだ!』っていう気になれるかも」って。

かつて幻冬舎のウェブサイトで連載されていた、2001年1月末から2002年1月までの日記。毎日の体脂肪の数値と食事内容のあとに、その日の行動や考えたことが続き、最後に読んだ本のタイトルと簡単なコメントが付くという形式。

もうね、これ読んでるとね、ものすごくお腹が空くよ! 深夜にこってりしたものが食べたくなるよ! 危険! しかし著者がとっても美味しそうな自作のカルボナーラを食べているくだりを読みながら「ブリオッシュにたっぷりバター塗って食べたい」とか思ってしまう私の頭はどうなっているのか。あ、卵か。卵つながりか。

でもさー。この人って、本質的には、ご自分で言うほどの「だらしな」じゃないのでは? 食べることに関してはかなりマメだし(それはそれで心配になるほどの食欲と不規則さではあるんですが)。

そりゃー、何日もお風呂に入らなかったり、一度外に干した洗濯物を雨が降ってまた晴れてそれでもまだ干しっぱなしだったりなんてときもある。一人暮らしでフリーランスの書評家兼ライターさんで、自腹で買う書籍や寄贈される書籍がどんどん増えていくうえに掃除が大嫌いとあって、実際に写真が掲載されている仕事部屋は、マジですさまじいことになっている。トイレに行ったあと手を洗うのが嫌なんてことも、さらっと書いちゃう。

しかしその一方で、この日記を読んでると、ものすごい勢いで次々と仕事してるんだよ、藤田さんって。多分この人は、自分の持てる「きちんとするためのエネルギー」のほとんどを、怒涛のスケジュールを自転車操業でこなしつつ仕事のクオリティを保つこと(および、美味しいものを食べること)に振り分けちゃってるんだよ。決して、きちんとするためのエネルギーが「ない」わけじゃなく。

忙しいのは仕事が多いからじゃなく、仕事が遅いから、という感じで(謙遜して?)書いてらっしゃる箇所もあるんだけど、単純作業じゃないんだし、執筆以外に取材や調査も必要だし、1時間に×文字、連続×時間で完了、とか予測できる職種じゃないよね? ある程度、ぼーっとする時間もないと、脳味噌だってクリアにならないよね?

こういうふうに仕事をしつつ、精神の安定を保ち、なおかつ第三者の目から見て「きちんとしてる」と判定してもらえるような、健康に配慮した折り目正しい生活を続けるなんて――もちろんできる人もいるだろう。けど、(たとえ意識的にではなくとも)生活部分を切り捨てる人がいることも、まったく不思議じゃない。だからこの日記をウェブに公開して、身近な人たちから、もうちょっとなんとかしろ的なことを言われたと藤田さんは書いておられたけど、「仕方ないんじゃ?」という感想しか出てこない。

昼も夜もなく仕事に追いまくられる日々の記録からの連想で、
「私も熱を出してふらふらになりつつ手持ちの仕事をようやく片づけて寝込んでいたら目が覚めたとき部屋いっぱいにFAX紙の海がうねうねと広がっていたことがあったなー(←ロール紙FAX機しか持ってなかった時代)」
とか、
「連日の根詰め仕事ののちの徹夜ラストスパート明けに夫の両親とお出かけしなくちゃいけなくてロクに会話もできず意識が朦朧としたままひたすら愛想笑いしていたなー」
とか、
「夜分に突然の電話で押し切られて翌朝までほかの人の仕事のチェックとリライトをしたあと友人の結婚式に出席すべくギリギリで新幹線に滑り込んだんだよなー」
などと、藤田さんのエピソードと類似した自分自身の胃がギューッと痛くなるような記憶がどんどんよみがえってしまい、心臓をばくばくさせながら涙目で読み進む羽目に。とにかく日記の文章そのものがとても面白いので、涙ぐみつつ読むのをやめることができないのだ。読了本に関するひとことコメントも、簡潔にして的確、そしてジャンルの幅が広い。

気持ちが弱ってくると関係ないアルバイトの募集広告を見ちゃうとか(藤田さんはクリーニング屋だったが私は駅近くのパン屋だ!)、仕事中に電話やメールの着信音が鳴ると心臓が“ドックン!”と音を立てるのが聞き取れるほどだけど、なんでこんなに年がら年中ビクビクしてるんだろうとか、はるかに低レベルな働き方しかしてなかったであろう私ごときが言うのっておこがましいんだろうけど、あまりにもかつての自分と同じで、息が苦しくなるほどでした。

しかしそんなこんなしつつも、藤田さんは「この仕事を選んだのは自分。続けていくと決めたのも自分。」と日記に書き、時には抗不安薬や抗鬱剤を飲んだりもしながら頑張ってしまう。あうあうあう。布団をかぶってえぐえぐえぐと泣きながら「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいワタシ程度の不調で何もかも投げ出しちゃってごめんなさいいいいぃぃぃ!」と叫びたくなったこと、この本を読んでいるあいだに10回以上。やらないけどね。

あと、仕事をする姿勢についても、いろいろと考えさせられた。自分を振り返って、すごく情けなくなったり、身につまされたり。たとえば、8年間ずっと関与してきた雑誌で、守備範囲外の仕事をさせられて担当編集者と話をしたあとの、こんな記述。


フリーで仕事をしていると「断る」ことに非常に臆病になるが、きちんとできないことはできないと言わないと相手にも編集部にも失礼だし、何より自分がとてつもなく落ち込んでしまう。


あるいは、ほんの1ページの雑誌記事でも、それに関わる多くの人間のうち、1人の予定がたった1日ずれただけで、「雪崩」のようにすべてが狂っていくが、お互いさまなので怒りは感じない、という説明のあとに続けられる、こんな記述。


こういうときに思うのは、「コミュニケーション」の大切さで、同じことでも信頼関係のない相手から言われるとイライラしてしまいがち。自分の精神状態のためにも、ちゃんと人と向き合っていかなくてはいかんな、と改めて思う。


これには、目が回るほどガツンとやられてしまいました。私はいつも、ほかからやってきた雪崩の衝撃はわりと淡々と引き受けてきたが、自分自身が雪崩を引き起こす側になるのは、とてつもなく怖かった。それは、責任感が強かったからじゃない。コミュニケーションを取るのが、面倒だったのだ。自分が、同じ仕事に関わっている人たちと信頼関係を築けているという自信が、なかったのだ。でも、それじゃダメだよなあ。

今度もし仕事に復帰できたら、そのときは、もうちょっとスマートにやれるだろうか。重い。でも、えぐえぐ泣いてるだけじゃなく、真摯に受け止めてちゃんと考えなくてはいけないことだと思う。ま、そのうちね。

……えーと。この辺でだんだん、本書を貸してくれた人の思惑から、自分の反応がどんどんずれてってるような気がしてきましたが(落ち込んでいる相手に、さらに追い打ちをかけるように、えぐえぐ泣きたくなる本を読ませるようなオニな友達じゃないはずなので)。

ただ、「人間には、能力の限界というものがあり、そのレベルは人それぞれである」ということには、改めて気付かされたような気がする。何もかもを手にすることはできない(できる人もいるけど)。だったら何を選び、何を捨てるか。ある一定のエネルギーを、どこにどう配分するか。

どうやら日々の活動に費やせるエネルギー全体量が人より少ないらしい私が、(それなりに掃除された)快適な居住空間や、家族と過ごす時間を捨てる覚悟を持てないのなら、ほかのものを切り捨てるのが自然のなりゆき。できもしないくせに、すべてを手にしようと無理にあがいていたからこそ、今の私は何もかも中途半端なままパンクして呆然とするしかなくなってしまっているんだろう。

そういう意味では、「こんな私でもいいんだ」と納得する(というか、納得しなくちゃいけないと自分に言い聞かせる)足がかりに、なったかなあ。


(追記)
ざざっとウェブで情報をあさってみたら、藤田さんてばこのあとに続く『やっぱりだらしな日記+だらしなマンション購入記』では、ペットを飼い始めて、そのために掃除もするようになったそうではありませんか! ほんとかよ!? ぎゃーす! そんな人はもう、まるっっっきり「だらしな」の風上にも置けませんな! タイトル変えろよ! ぜーはー。しかしながら、この続編もすでに借りてあるし、蕎麦屋の帰りに衝動買いしたというマンションのお話もすっごく気になるので、読みますよ、読みますとも!

Posted at 2007年10月20日 11:57



All texts written by NARANO, Naomi. HOME