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2008年1月 8日

Robert J. Sawyer "Mindscan"

読了本 | 書籍・雑誌

Mindscan

Tor(ペーパーバック2006年/ハードカバー2005年)【Amazon.co.jp】

今月から、「昨年末の書棚整理で発見された未読本を消化しよう」プロジェクト、発動しました(笑)。

これ、1年半ほど前に買ったときには、どうせ邦訳もすぐに出るんだろうなって思って微妙に気乗り薄だったのですね。でも気がついたら、一番新しい翻訳本である、ネアンデルタール3部作の完結編『ハイブリッド―新種』(ハヤカワ文庫SF)が出てから、すでに2年以上が経っていた。もうソウヤーは翻訳されないのかしら? まあ私もネアンデルタールのシリーズは、正直さほどのめり込めず、3部作の1冊目の時点で、これからはソウヤーを原書で追いかけるのはやめる、日本語だけにする、とか言ってたわけなんですが。結局この "Mindscan"を読んじゃったので、最新長編 "Rollback" (2007) もペーパーバック落ちしたら読んでしまうのかも。

で、本作。久々に読んでもやはり、「よくも悪くもソウヤーらしい」と思ってしまうSFでありました。

時は2045年。人間の「意識」をスキャンして人工のボディに「アップロード」する技術が可能になったばかり。当人の法的な権利をスキャンされた意識と人工ボディが行使できるよう手続きすることによって、実質的な不老不死を実現するというビジネスが提供され始めています。当然、これに飛びついたのは、とってもお金持ちで、かつ余命の短いご老人たち。地上でのアイデンティティを人工ボディ内のスキャンされた意識に明け渡した生身(オリジナル)の彼らは、この技術を提供している企業が月に造った施設「ハイ・エデン」で、肉体の寿命が尽きるまでを不自由なく暮らします。

そのなかに、ただ一人、比較的若い男性がいました。本作の主人公ジェイクは、先天的な脳血管の異常により、いずれ普通に生きることはできなくなると分かっていたため、早々に意識のスキャンを受け、生身の自分をリタイヤさせることを決断したのです。オリジナルとスキャン、ジェイクが2つのバージョンに分岐したところからは、物語も2人のジェイクの視点を交互に用いながら進められます。

オリジナル版のジェイクは、月に移り住んだあとになって発見された画期的治療法により持病から解放され、本来、生身の自分が謳歌するはずであった地球での人生を、激しく希求するようになります。

一方、正式にジェイクその人として地球での生活をスタートしたはずだった「スキャン」バージョンのジェイクは、当初の予想ほど、機械の身体を持つ自分たちの存在が、皆にスムーズに受け入れられはしないことを思い知ります。やがて、コピーされた意識を持つアンドロイド体を、本人として認めるべきかどうかをめぐって、裁判まで起こってしまいます。

裁判の当事者となったのは、同じく生身の体を捨てる選択をした、作家のカレン。(スキャン版のジェイクは、スキャン版のカレンと恋人同士になっているのですが、スキャン元すなわち生身のカレンは老婦人だったので、時折ジェネレーション・ギャップが生じたりして、微笑ましい。)そうそう、裁判とは直接関係ないんですが、小説家が法的に不老不死になった場合、著作権は……なんて話題が出てきたあたりでは、ソウヤーの本音もこうなのかなあ、なんて思ってしまうようなセリフもあって、興味深かった。

裁判シーン、かなり長いです。延々と裁判してます。これはちょっと、同じく裁判シーンが核になっていた『イリーガル・エイリアン』を彷彿とさせなくもありません。

またその裁判において議論される、「意識」や「魂」や「人格」とはなんであるのか、そして人間はこの世に生じたどの時点から「人間」として認められるべきであるのか……なんてテーマは、『Factoring Humanity』『ターミナル・エクスペリメント』でもすでに出てきていたような。もちろんこれらは、過去の作品とはまた違う角度から語られており、しかも裁判の場でのカレンたちの勝敗に関わる問題でもあるので、読んでてかなりドキドキします。

やっぱり、どうしても、「またこれですか」とは思ってしまうんだけどね(笑)。

そしてその裁判がそろそろ一段落する頃、月にいるオリジナルのジェイクがとった、ある行動……これ、けっこう残りページ数が少なくなってしまってからの急展開だったので、「ええ〜! それ、どうやって納得いく形で収集つけるんだよ!?」って思ったんですが……ふーん、そういう形で解決ですか(ちょっと脱力)。

反面、序盤のちょっとした記述が、ずっと謎だったことの種明かしへの伏線であったと分かったときには、「お!」って感じでした。加えて、最後の最後では、ばばーんと話のスケールが広がります。おおおおおっ!

ただ、これについても読了後はやっぱり、心の片隅で「またか……」と思っちゃったんだよなあ。さりげなく伏線を散りばめておいて忘れた頃に回収していくのも、最後で大風呂敷を広げるのも、結局は「ソウヤーのいつものパターン」だと感じてしまう回路が私のなかにできてしまっているみたいです。

また、本当なら、終盤になって新たに浮上する要素(これもソウヤーお気に入りネタのバリエーション)は、そういう使い方をするなら、それだけで独立した別作品が書けそうだよなあって思うんです。でもソウヤーはいつも、1つの作品に詰め込める要素をすべて詰め込んじゃう。その「てんこもり」状態が、うまく行けば賑やかで贅沢で楽しいんだけど、なんかこのお話では、バランスが悪くて読み手としては消化不良を起こしてしまったような気がしました。えー、いきなり「そこ」へ行きますか、そして読者はそこで置いてけぼりですか、みたいな感じで。たしかに、中盤でそういう要素を予想させる記述は、なくもなかったんだけど……。私の好みから言えば、さっくりなくてもよかったなあ。

とはいえ、そういうことは読み終わって全体の構成を思い返したときに初めて考えたことであって。読んでるあいだは、その場その場のちょっとした描写も楽しく、わくわくとページをめくることができました。これも、私がソウヤーを読むときの、いつものパターン。

Posted at 2008年1月 8日 14:33



All texts written by NARANO, Naomi. HOME