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2008年7月15日

勝間和代『勝間和代のインディペンデントな生き方実践ガイド』

読了本 | 書籍・雑誌

勝間和代のインディペンデントな生き方実践ガイド

ディスカヴァー携書(2008年3月/親本『インディでいこう!』2006年1月)【Amazon.co.jp】

去年の秋に休業宣言をして以来、今も明るい無職生活を満喫しています(ただし、いまだに病院には通っているし、以前と比べて自分のための支出をかなり抑えているつもりでも、自分名義の貯金はじわじわと目減り中)。

ささやかながら、前々からやりたいと思ってたことにも手を出してみたりして、ヒキコモリ度も緩和され知り合いも増えて、なんだか私にしては穏やかに充実した毎日。ちなみに、最近いちばん強烈にしみじみと「幸せだなあ!」という思いが込み上げたのは、モヤシ(1袋22円)のひげを1本1本、取っているときのこと。なんだか一瞬、すごく余裕のある人になれたような気がして(笑)。

そんなこんなで、めっきり労働意欲が低下してしまっている今日この頃です。しかしながら、先日ふと魔がさして(?)、ちょっくらこの辺でがっつり稼いでいる人の本でも読んでみっかー、と思ってしまったのでした。

そう思えるようになったことだけでも、私にとっては、かなりの進歩かもしれません。仕事の受注をやめた直後は、全力投球で働く女性が主人公の小説なんかを読むだけでもどっと疲れが出て、途中で本を閉じてしまったりしてましたから。

というわけで、掲題の書は、ここんとこあちこちでお名前を見かける経済評論家の勝間和代さんが、まだ今ほど有名じゃなかった頃、初めて出した単著の再リリース版。若い女性に向けて、仕事や生活への取り組み方について説いたもの。

本書の中で勝間さんは、女性のライフスタイルの対極的な2つのモデルとして、経済的・精神的に自立した「インディ」と、依存的な「ウェンディ」という、2タイプを挙げています。

さて、自立しているいい女として定義される「インディ」の条件とは

 1. 年収600万円以上(≒働く女性の上位10%)
 2. 自慢できるパートナーがいる
 3. 年をとるほど、すてきになっていく

だそう。各項目に関する根拠と定義付けの説明は非常に具体的で明確で、なるほどこの条件を満たしている人ならば、さぞかし充実した毎日を送っていることでしょう。

ただ、その「インディ」自体が、社会の中で補助的な役割に甘んじて経済的には配偶者などに依存せざるを得ないこともある「ウェンディ」たちを踏み台(というのは言葉が強すぎるか?)とすること前提というのが、ちょっと引っかかりはします。いくら、昔に比べて「ウェンディ」の居場所が狭くなってきていると言っても、現状、ゼロでは社会は回らない。あるグループが全体の「上位」とみなされるためには、必ず同じ評価軸に基づいて「下位」のグループが存在していなければならないのです。

たとえば、勝間さんは頑張りすぎず自然体で仕事と家庭を両立させた生活を維持するために、家事サービスの導入も検討してみては、とおっしゃっていますが、そういった家庭内のこまごまとした雑事(勝間さんオリジナルの表現ではありませんが、「家庭での産廃処理」という非常にネガティブな響きの言葉が使われています)を外注したとして、それを受けてやってくるハウスキーパーさんは、「ウェンディ」の階層に入る女性かもしれません。

また会社の中においても、「インディ」の仕事はきっと、比較的単純な作業を担当する年収600万未満の「ウェンディ」たち(派遣の人とかね)によってサポートされなければ成り立たない場合が多いことでしょう。つまりこれは、「どうせもう不可逆な格差社会になっちゃってるんだから、あまっちょろいこと言わずに現状肯定で割り切って競争に参戦して周囲の『ウェンディ』たちを出し抜いて勝ち組に入りましょうよ」という、言ってみればミもフタもないお話なのだと思います。

本書で述べられている「インディ」の理想的な「自慢できる」パートナーの条件の1つが、「年収一千万以上(≒働く男性の上位10%)を余裕で稼げる男」であるあたりにも、その発想が顕著であると感じました。

 なぜ、一千万円なのか。これは、いい悪いではなくて、あくまでも経験則から出たものです。やはり、男にとっては、経済力が自信の根源になります。なので、女性が六百万円以上稼いでいる場合、一千万円以上稼いでいる男性でないと、どうも必要以上に女性をライバル視したり、あるいはかえって卑屈になったりして、うまくいかないことが多いようなのです。(p.160,太字は原文ママ)
 なぜなら、コラム2の「幸福の経済学」で触れましたが、収入と幸福感には、強い相関関係があります。それは金額そのものよりは、その金額が自己の存在の証明になっているからのようです。その点、一千万円以上稼いでいる男には自信がありますので、インディと上手にバランスをとっていけるようになります。(p.161,太字は原文ママ)

そもそも、誰にはばかることもなく自分が好きで選んだパートナーを、果たしてわざわざ「自慢」する(第三者の価値観に照らして認めてもらう)必要自体、あるんだろーかと私なんかは思ってしまったりするのですが。

自己の存在の証明が年収額な男っていうのは、あまりにも貧しくないか。いや、貧しいというのは語弊があるかもなので言い換えますが、あまりにもリスキーではないか。それこそ、人生、何が起こるか分からんのに、そんなところで自信を持たれても。私はイヤだなあ、そんな「一方向からの負荷には耐久性があるけど、ちょっと別方向から叩いたら崩れるんじゃないか」みたいに思えちゃう男。

大体、(仕事してないワタシが言うなって感じではありますが、実際がどうであれ)「もしも相手より自分のほうが稼いでいたら、相手との関係はこじれてしまうに違いない」なんてことを当たり前に思っちゃうこと自体、すっごく哀しくない? そんな脆弱な信頼性の低いパートナーシップって、何? そんな器の小さい男を、「自慢」できますか? それって、ほんとにお互い「自立」してる? また、パートナー選びに関しては、こんな文章もあります。

 最後の条件、「年齢とともに成長していく男」については、よーくチェックしましょう。(中略)
 お勧めなのは、挫折を味わって、それを乗り越えてきた人です。あるいは、仕事以外に自分で大事に思える何かを持っている人です。(p.165-166,太字は原文ママ)

うーーーーん。本書のターゲットになりそうな若い世代の場合、男女共に「今まで順風満帆で、これから苦労に直面する」可能性のほうが高いと思うのですが。「一緒に挫折を乗り越えられるかどうかやってみる」という選択肢はないのか。自分のあずかり知らぬところですでに一度「乗り越え経験済み」の人をゲットすれば、成長能力が実証されているので安心ってか。いや、たまたまそういうタイミングで出会って惹かれ合うということはあるでしょうけれど、最初からそのタイミングを狙って構築される人間関係は、あまり濃密な面白いものにはならない気がします。

また上記のような考えかたを裏返せば、女性側も自分自身の価値を計る基準の中心に「収入額」を置くことになるわけで(なんせ本書における“いい女”の条件「その一」ですからね)、やはりこれは一歩間違うとかなり危険な考えではないか。白状すると、私自身、収入の上昇がそのまま自信につながるというような価値観に染まりかけていた時期がありました。特に自営になった直後は、仕事の幅が広がっていくこと、それらの仕事の報酬額の合計が(ショボいスケールですけど)徐々に増えていくことが、なんだかゲーム攻略のようで単純に面白かったし。

しかしながら、個々のパーソナリティと資本主義経済に基づく第三者から見ての価値は、いったん切り離して考えられたほうが、長い目で見たときの生き延びる力になるような気が、今はしています。

この社会でそこそこ快適に暮らしていくためのお金は、もちろんあるに越したことはないわけですが、稼ぎの有無や多寡とは関係のないところで、今ここに存在する私自身を、私は――私だけは――誰に何を言われようと肯定していてよいのだと、そう平静な心で思えるようになる訓練のために、今こうして数年ぶりに無収入な生活を送っていることは、有意義であると感じています。まあ、こんなノーテンキなことを言っていられるのも、パートナーの有形無形のサポートと、ある程度の貯金あってのことかもしれないのですけれども(←というわけで、がむしゃらに働いていた時期があったこともまた、これはこれでよかった)。

性別を問わず、何があっても卑屈になることなく誠実に自分にできる範囲の行動をとって近しい人たちと共存し、のほほんと牧歌的に生き延びていける人間が、いちばん強いのではないか……というのが、自分が久々に無収入になってみての、実感です。私はまだちょっと、本当にはその心境まで到達できていませんが、遅々とした歩みで日々そこに向かっているつもりです。いつかまた働き始めるとしても、そのときはもう、それを自分の存在価値だと思ったりはしない……ですむといいなあ(いきなり文末気弱)。

とは言え、上述のような「インディ」の生き方に共鳴し、その素養のある若い女性が、旧来の価値観に基づく「女の子らしさ」に足を引っ張られることなくそれを目指す「自由」を獲得することは、大事なことだと思います。

そしてそういう人にとって、本書は分かりやすい目標設定がなされている、非常に具体的で有用な指南書であると思われます。全体的な論調はとても前向きで好感度が高い。きっと勝間さんご自身も、世間のボリュームゾーンにおいて好感度の高いポジティブなかたでしょう。読んでるだけで、すごいパワーを感じます。

まあでも、向き不向きだよね。勝間さんご自身も、

でも、ここで一つ勘違いしていただきたくないのが、ウェンディが悪くて、インディのような生き方が絶対にいい、といったような、二元論ではないということです。
 なぜなら、インディになるためには一定の努力が必要ですし、そのために失うものもあるからです。(p.24,太字原文ママ)

と、おっしゃっています(上述のように、そもそも「ウェンディ」が90%を占める社会だからこそ、勝間さんたち「インディ」が突出できるわけですしね)。もともとの能力の問題を脇に置いても、私は多分、その「失うもの」への未練が大きすぎるな。たとえば「毒」とか「翳」とか「無駄」とか、私にとっては人生においてかなり重要(笑)。

ちなみに、この「ウェンディ」という概念は『ピーター・パン』のヒロインから取って名付けているそうで、

ウェンディは、大人になりたくないと思い、子ども部屋から出ることを拒否し、ピーター・パンを待ち続けました。ウェンディのように、独立することを避けて子どものままでいたい、そのような気持ちをウェンディという言葉で表しています。(p.22)

ってあるんですが。えーと、ここから下は、どっちかというと余談(そして「ピーター・パン」のお話のネタバレ)だと思ってください。

あのさあ、J. M.バリーのあの作品ってさあ、そんなストーリーだったっけ? あれのラストって、ウェンディが「私は大人になったからもうネバーランドに行けない」って言い出してピーター愕然……みたいな感じじゃなかった? それで代わりにウェンディの娘を連れていくんだよねえ? そもそもその前に、最初に家に戻ったとき、ウェンディはピーターにも「ひげが生えても好きよ」って、一緒にオトナになろうって言うんだけど、ピーターは拒否してネバーランドに帰っちゃったんだよねえ?

まあここでの論旨には関係のない瑣末なことかもしれませんが。ウェンディというキャラクターがわりと、旧来のダンナさまやコドモがいてこその良妻賢母タイプであることはたしかだし。ネバーランドにいるあいだから、ガキンチョのくせに嬉々として「奥さんごっこ」、「お母さんごっこ」やっちゃうんだよな、この子は。

だけど、良妻賢母なウェンディ(勝間さんの定義ではなく、本来の『ピーター・パン』のキャラのほう)にも、ウェンディの強さがあるはずなのですよ。

ウェンディたちがネバーランドに行ってしまったあと、ウェンディのお父さんが失意のあまり犬小屋で暮らし始めて世間一般の基準では「ヘンな人」になってしまったときも、ウェンディのお母さんがそんなお父さんを馬鹿にせず、自分自身の哀しみに閉じこもらず、心情を分かち合い夫婦の絆を失わず、ともすれば諦めの境地に陥りがちなお父さんをいさめて窓を開けたまま子どもたちの帰還を待ち続けたように。

そのお母さんの娘であるウェンディもまた、永遠の少年ピーターを卒業しオトナとして自分の意志で選んだパートナーとの生活に、たとえ何らかの危機が訪れたとしても、それで即座に相手を見限ってしまうようなことはなく、凛として背筋を伸ばし心を寄り添わせ一緒に乗り越えていったのではないでしょうか。そういうのは、「依存」とはまた違うと思うのです。

ウェンディは、ネバーランドで過ごしつつも、そこにいる子どもたちのなかでは、いつかネバーランドを離れる日が来ることを、(きょうだいの最年長なだけあって)いちばん感覚的に理解していた子でした。

けれどピーターが再訪してこないあいだに、子どもの世界からはみ出していく自分を受け入れつつも、かつて自分が親の庇護を離れてネバーランドへ旅立ったという記憶、かつて自分にも空が飛べたという記憶を、ネバーランドから戻ったほかの子たちとは異なり最後までずっと持ち続け、自分が産んだ子に継承し、その子がピーターと共に旅立つのを冷静に見送ることができた人でもあったのです。第三者の目に顕著な、なんらかのアクティビティがなくたって、そういう人はちゃんとバランス感覚を持ってて、強靭であるような気が、今はするのです。

勝間さんのいう「ウェンディ」と違って、本来のウェンディは、白髪が生えるほど歳を取っても(バリーは作中で大人になったウェンディについてそういう描写をしていたはず)、充分に魅力的な人だったんじゃないかなあ。

Posted at 2008年7月15日 18:16



All texts written by NARANO, Naomi. HOME